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【247球目】3月4日は三陽の日

先週金曜日、3月4日は三陽の日でした。

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勝手に私が決めて言っているだけですが、34と並ぶ日は1年で1回だけです。なので今日は三陽工業について、取り留めもなく書いていきます。


三陽工業の歴史

歴史と言うと少し仰々しいですね。

三陽工業は1980年3月25日に誕生しています。私が2才と4ヶ月の時です。初代社長は先代の井上修二、会長には井上省

井上省が個人でやっていた井上工業所という事業が三陽工業という法人へと転換していきました。ちなみに、いのうえたすくと読みます。省の父親の名前は寅太郎(とらたろう)井上寅太郎、井上省。今でもありそうな名前ですね。

今から42年前、三陽工業という法人は小さく誕生しました。まさか、42年の時を経て、今こうなるとは当時は夢にも思っていなかったでしょうね。


エピソード①

昔の話を普段しないので、印象に残っているエピソードをここでは紹介していきます。

1つ目のエピソードは川崎重工との取引開始です。当時、井上工業所という個人事業で川重の仕事はやっていました。が、しかし、個人ですので直接口座がある訳ではありませんでした。どこかの下請けの様な形で入り込んでいた訳です。そんな中でも真面目に一生懸命やっていたので川重明石工場の中には井上工業所三陽工業の社員が数多くいました。

井上省と懇意にしていた川崎重工のOBの方が三陽工業に入ることになりました。山下さんという方です。この山下さんが三陽工業に来た時の話です。

山下さんは三陽工業が川重の口座を持っていると思っていました。実際に入社すると直接の口座がないと知った訳です。その時、山下さんは、

ちょっと待っといて!

と言い残し川重明石工場へと向かいました。それから2時間後、口座出来たで!!

Σ(・□・;)

時代背景もあるでしょう、今ならなかなかできないことですが、そんなことで三陽工業は晴れて川重明石工場の口座を持てることになった訳です。全てはそこから始まっています。感謝しかありません。


エピソード②

私が入社した時に現在でいう物流ユニットの長をしている人がいました。

とても人格者で、若い私の色々な話も聞いてくれました。その人は実は当初、川重明石のロボットの請負職場配属で入社をしました。細かい部分は知りませんが、入社して2週間から1ヶ月というとても短い期間で、井上省から、物流センターの責任者やってくれへんか?と言われたそうです。

結果的に、その流れで今の物流センターがある訳ですからその眼力は流石の一言です。ちなみに現在GT製造部で活躍している柏原さんもその眼力に適った1人です。

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エピソード③

もう1つくらいいきましょうかね。

三陽工業の前身である井上工業所時代に実は神奈川県藤沢市に出張所を持っていました。そう個人事業なのに県外に拠点があった訳です。そして、色々な問題があったために、この藤沢出張所を同業他社に譲渡して撤退をすることになりました。

諸問題があった訳ですが、とりわけ大きな問題だったのが資金面

資金面で働く社員に迷惑をかけるかもしれないという想いで、当時の井上工業所よりも大きな会社に社員ごと譲渡しています。その話を三陽工業に入社してすぐに聞きました。

そして、いずれは県外に出る!そして、神奈川に拠点を再び創る!そんな想いを持つようになります。それが今の横浜営業所へと繋がっています。

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その横浜営業所埼玉営業所を生み出し、埼玉営業所から栃木営業所が、そして、横浜営業所から静岡営業所が出来ています。感謝です。


まとめ

言いだすとキリがない昔話。

基本的には未来思考だと自分では思っていますので、昔話をすることはあまりありません。ただ、数年前にある社員に、三陽工業の歴史をもっと知りたいと言われてから、そんな考え方もあるんだと気づき、必要があれば話をするようにしています。

たまにはみんなが知らない昔話もしていこうかな。本日もありがとうございました。明日もよろしくお願いします。




最後まで読んでいただき、ありがとうございました!