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知らないことは知らないまま

大変唐突ですが先日生まれてはじめて溶接というものをやりまして、それはアーク溶接というものだったのですが、まあ溶接です。鉄が融解するほど高い温度にしてそれが互いにくっつくというこの溶接、やったことある人とない人の割合は日本人が1億人いるとしてどのくらいの比になるのでしょうか。

データがないのでわかりません。しかし私もなにかの運命のいたずらでもなければこれをやることはありませんでしたし、今後も多分ないでしょう。職業訓練校だからそれがカリキュラムに入っているからやったまでのことで、進んで希望したわけでもありません。

溶接というのは多分なにか映像とかネットでご覧になったことはあるかと思いますが、直接そのアークの光を目で見ると目を痛めるため、保護のための暗くなるガラスを通してみることとなります。この暗くなるガラスは面の真ん中に設置されており、その面を顔面の前に掲げて、アークを観るわけです。

やってみるとわかるのですが、アークは安定して出続けているかというとそうではなく、手動の溶接であれば手の(腕の)操作で、燃えてだんだん短くなっていく溶接棒を現場に近づけながら一定のペースで移動していかねばなりません。これはやってみないと感覚は分からないと思うのであります。

やってみるとアークというのはガラスを通してみていても美しい光です。たぶんなにかの特徴があるんでしょう、光は上下に長くその尾を出しています。それから、まさにいま融けている鉄の液体化した様子もきれいです。アークはその液体の池に向けて流れこんでいます。

もちろん素人である私がいきなりアーク溶接を達者にできるわけもありません。しかしそれでも、やってみてはじめてああ溶接とはこのようなものなのだと思うところがありました。

また、それを行う機械があり、それは電気の力でうごくわけでありますが、電気のパワーについてもめざましく目の前でみているわけです。
電気ドリルとか回転する動力機械とか、電気で動くもののパワーは強く、いつも使っているものなのに、こんなにも狂暴な力を発揮するものなのかと改めて思います。

思えば毎日自動車(ガソリン動力)に乗車して運転しているのですが、この自動車という機械もまたおそろしい力を発揮しています、機械だから当たり前と思う方もいらっしゃるでしょうが、そのパワーは人間を簡単に殺したりガードレールを捻じ曲げるような恐ろしいものです。

人間を超えています。

機械なるものに対して、怒りをもってうちこわしの騒動があったラッダイト運動というものが世界史ではありました。1811から1817年のことです。

はじめて機械というものを目にした人民は、どの国なのか、まるでこれは(既知の存在にあてはめるとすると)魔法に違いない、と思うこともあったでしょう。

しかし今の世の中では機械はなるべく機械の獰猛さや恐ろしさ、パワーなどを隠蔽するようになっています。明るい色のプラスチックでケースなどをつくってその中にしまっておき、こわい部分は見せないようにしています。安全のため、という名目もあるでしょう。

なかなかそのようなおそろしい部分は、専門家だけが扱うものとなっています。自動車ならば自動車整備工、電気であれば電気工事士や設備管理関連の職業です。みな作業着を着ています。汚れる可能性が高いからです。

今の世の中は職業について差別的意識があります。いわゆるブルーカラーは軽蔑の対象です。
なぜでしょうか?
ブルシット・ジョブ的なホワイトカラー労働がかっこいいとでもいうのでしょうか?

人間はみなラクしてお金だけほしいと思っているとでもいうのでしょうか?

そんなことを溶接をやりながら考えていました。

そのあと、休日になったので市民農園で育てた芋堀りをしましたが、小さめの芋なのに、きれいに掘り出すのはやはりものすごい手間と力が必要で、疲れてしまいました。なんでもやってみないと、知らないままであることは、知らないままであるなあと思う次第です。

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