見出し画像

気になるシーンがあるから、という理由で映画を一本観る。人はそれもまた浪漫と称するのかもしれない。たとえそれが"砂嵐"なのだとしても。

人生のターニングポイントってあったかな、などと自分のことを思い返すのはやめておけ。考えなきゃいけない時点で見逃してるか、あるいは訪れていない。 - - - - -  『ドリームランド』感想


ダストボウルのシーンをスクリーンで観たくて映画館に足を運んだ、というとバカバカしいだろうか。

ツイッターのタイムラインをぼんやり眺めていてぐうぜん見かけた映画の情報。それが『ドリームランド』だった。観に行こう、と決めた。

非日常、ここではないどこか、希望の地。そういったものへの憧憬は世の必然でもある。ましてや若き日のそれはきっとそう。鬱屈とした日々を変えてくれる存在が現れたら立ち上がるのが浪漫だろ、とでもいうような。それが正しいかどうかはともかく、葛藤と情動の果てに青年は突然現れた「問題の彼女」との道を進むことになる。

そういう話だった。わかる。
このへんの言及はあとでもう少しする。

さて、予告動画の0:50すぎのところで問題のシーンがある。ダストボウル。いわゆる、歴史にその名を残す1930年代の中西部アメリカで断続的かつ広範囲に起こった超巨大な砂嵐のことだ。
開拓によって剥き出しになった広大な、それはもう広大な土色の世界。こうした乾いた大地に雨が降らなくなると、吹く風がしばしば砂嵐へと変貌する。
穀物が安定的に生産・供給できていた時期はともかく、世界恐慌に伴い見捨てられる耕地が出始めたこの頃。周囲に定常的な草木がないため土が舞い上がるばかり。防風林の役目を果たすものもなくなった地域に吹く風は歯止めがきかず、やがてそれは悪魔のような災害へと成り果てた。それがダストボウルだと話には聞く。詳細を知るわけではないけれど。

ウィキペディアにも1935年の写真があった。もし現場にいたら、この世の終わりだと思ったとしても仕方ないと思う。それだけの絵面ではある。

実際のところダストボウルそのものに詳しいわけでもなければ、そうした現象を調べているというわけでもない。じゃあ何がそんなに気になったのかと振り返るに、たぶんその時代感というか、向こう側にあるものが観たかったんだと思う。

スタインベックの『怒りの葡萄』などでも有名だが、1930年代のアメリカの農村は地獄の歴史を辿っている。もちろん差はあるだろうけれど、苦境に立たされる時代だったということは間違いない。それは様々な要因が重なったもので、何が悪いと一概に言えるものではないだろう。でもダストボウルは、農作物への深刻な被害を及ぼすのはもちろん、人々の気持ちを折るに十分な出来事であったことは想像に難くない。これこそが一因にして、同時に悲劇の象徴でもあるのだ。
そんなダストボウルの描写があるということ。それはつまり、そういう時期の、そういう地域ということだ。それだけで、推して知るべしな物語が様々に見えてくる。
個人的に観たいと思ったのは砂嵐そのものというよりは、そうした事象を背景とした人々の葛藤や社会のひずみのようなものだ。そこで生きていく、あるいはその土地を捨ててまた別の街へ移ろいゆく。そうした選択や行動は、時に心をえぐられるように辛く、同時に観入るだけのすごさがある。

まあそれはそれとして、惹きつけるだけのフックはやはり予告や宣伝において大事だし、人によって見るポイントは異なる。僕にとってそれがダストボウルだったというだけのことだ。
出会いとはわからないものだなと思う。

僕はときどき、こういう予告等のシーンの断片に惚れ込んだ流れで本編にも触れようと思うに至ることがある。
『1917』も予告の駆け抜けるシーンからタイトルロゴが出てくるところだけで映画館に行くことを決めたし、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は自身のセリフミスにキレ散らかすディカプリオのシーンだけで「全編観たい!」となった。『天国でまた会おう』を映画館で観ていたときは、冒頭の広大な塹壕シーンのアングルだけで「BD買おう!」と決めた。だいたいそういうときは、本編自体にも満足する。こういうのは直感的なものだし、同時にそのこと自体を楽しむ自分がいるのだと思う。

閑話休題。
改めて本編に少し触れるけれど、このダストボウルをまた違うひとつの象徴として捉えていたのが主人公だ。突然やってきた非日常を司るような女性。彼女を匿う中での葛藤。先の見えない日々。そこに訪れたかつてない規模の災害。道を選ぶ、その時は今。逃避行の決断に至る流れは、モノローグ込みでとても丁寧な描写だったと思う。
もっとも、そうした彼の決断は必然のようでいて、しかし冷静に考えると夢想的で無茶もいいところだ。明るい未来が待っている保証はどこにもない。外野から見れば特にそう感じる。でもそれ込みで、彼が求めていたことなのかもしれない。

時代や境遇などから古典名作を想起させるところもあるけど、個人的にはそこまで寄せたものではなかったように思う。むしろそうした時代感、そうした局面下における様々な人のありようの一つ、というか。

さっき「青年は突然現れた『問題の彼女』との道を進むことになる」と書いたが、まさに「進むことになる」という話。それでどうなるというよりは、そこへのお話だったという印象。実際、予告動画の印象では旅そのもののお話のようだったけど、実際に観た感想としては、むしろそこまでの過程こそが本題という印象だった。

モノローグを妹視点での語りに終始するのもおもしろかった。あの視点によって紡がれた小説のように捉える場合、逃避行をする二人の現場は想像に過ぎず、いわゆる信頼できない語り手かもしれない。そこまで気にする必要はないかもしれないけど。でもあのモノローグのおかげで「我々がこちら側にいる」ということが強く印象付けられたことは確かだし、なおのことメインの二人が遠くなっていく感覚があった。本来、鬱屈とした主人公の家族まわりの描写を込みで考えるならば、観る側が感情移入するのは主人公の青年のはずなのだけど。そうはならないところに、本作の魅力があるのかもしれない。

いろんな意味で遠くの、彼方の、儚くて、美しい物語。そんな印象だった。あと、直感の赴くままに映画を観ようという行為はやっぱり楽しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?