思ったこと:創作活動はあまりにも分からないことが多い

 私は趣味で二次創作の小説や絵を書いている。そして私は私の書くものが好きだ。私は言ってしまえば、私自身の為に創作活動をしている。自分が好きなものを見る為に書いている。上記でも行ったように、私は私が描く絵が好きだし、私の小説が大好きだ。誰にどう思われようとそれは不変である。

しかし、それならわざわざ書いて終わり、自分のフォルダにひっそりと収めておけば良いのに、わざわざ毎週決められた曜日にインターネットの投稿サイトに上げている。更に同人誌まで作りだしている。これはどういうことなのだろうか?

 私は私自身に寄せられた感想と言う物をあまり読まない、エゴサもしない。理由としては、感想を頂くと言うのは大変ありがたいのだが、私は良くも悪くも他者からの評価をまるまる受け取ってしまい気疲れしまうことが多いのでなるべく感想を読むのを控えている。そもそも感想をあまり貰わないので「調べて誰も感想言ってなかったら嫌だなぁ」と思うからだ(これも気疲れの原因になる)

 私は私のために創作しているが、評価される場にも出している。その中でうける評価は嬉しいが苦手である。わざわざ気疲れを感じる為に出しているわけではないのだが、どうしてだろうか。

 さらに分からないのが、私が書いたものに対して、私は基本的に「なんかいいなぁ」以外の感想がないのだ。なんかとは何か。一週間かけて書いたSSの感想が「なんか」で済むはずがないだろう。「ここの表現にはこういう意味が込められていて」とか「ここは彼女のこう言う心情が込められている」とかないのか?ないのだ。

 絵もそうだ、夜更かしもたまにして一週間ぐらいかけて描いた絵の感想が「なんかいいなぁ」だ。もっと他にあるだろう。「こんな思いを込めました」とか「こんな裏設定が」とかないのか?ないのだ。

私は私の創作物として見た時に「なんかいいなぁ」しかない。しかし無関心というわけでもないのだ。そもそも無関心であれば、何度も自分の小説を読み返して楽しまないし、小説など書けないだろう。一応小説のあとがきを付け加える時があるのだが、それが非常に難しい。「どうしてこれを書いたのか」と一週間ほど自分の中で解釈していかないと書けないのだ。まるで他人の書いた小説の感想を書いている気分になる。

そこで思ったのが、わざわざ感想を言う必要がないほどに自然体で書いているからだろうか?

自分の癖の感想、自分の昔からの生活習慣の感想、自分の午前中の過ごし方の感想、午後の過ごしかたの感想などをいう人はあまり居ないと思う。しかし、そんな自然体で書けるほど上達はしていないので、恐らく違うだろう。

しかし、分からないことに関してわざわざ全て分かるようにしようとも思わないのも事実だ。自分の中に、自分でも見えない部分に潜む神秘的な「自分の何か」を大切にするのも良いと思う。

結論としては、分からないことは無理に分からなくても良い。

と。まぁなんとなく思ったことでした。これからもなんとなく上げていきます。

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