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日曜礼拝


日曜日って日が二つも入ってるんだな。なんかめでたい。

日曜日だから「パン屋で朝食にクロックムッシュ」なんて洒落臭いことやってやったぜ。無職に曜日もクソもないけど。
なんか外観からおしゃれな店だったので、こんなところでモーニングときめこむか、と入ってみたものの、無骨な銀の食器、窓の向こうに広がる国道と曇天で、なんとなく共産主義国家にいるみたいな気分になった。こんなはずではなかった。

朝食を済ませたのち、コンビニでホットカフェオレを買い、公園のベンチで本を読む。
ぱらぱらと雨が降っていた。ジャンパーのフードを被り、本を守るようにして背を丸める。
公園の入り口には、円形の小庭とレンガ調の回廊があった。ジェネリック中世ヨーロッパといった雰囲気。車道を挟んですぐのところに高層マンションが聳え立っているし、デカい犬を散歩させている人もちらほらいて、微妙にブルジョワ感が漂う。
この高層マンションには、子どもの頃、仲の良いクラスメイトたちと何度か遊びに来た。幼い足には長い距離を、自転車で漕いで。
別に友だちが住んでいたとかいうわけじゃない。ただただ最上階まで行き、廊下の窓から景色を眺めた。今から考えると、よほど他に遊びがなかったんだろうと思う。
地元は貧乏な子が多かったせいかゲームが普及してなかったし、団地ばかりが建ち並ぶ地域で公園も少なかった。一つだけある広い公園には、いつもヤンキーの上級生が屯していて近付けなかった。
マンションは当然オートロックなので、いつも配達業者や住民が入るのを見計らって、さも当たり前のような顔を演じて後に続いた。
一度、同じ歳の頃の少年と、エレベーターで居合わせたことがある。着ているものが自分たちとは違うのが、子どもの目にもなんとなくわかった。彼はお徳用のうまい棒の包みを抱えていた。なんやあの夢のような袋は、と囁き合ったのを覚えている。こんな建物に、自分と歳の変わらない子どもが住んでいたりすることを初めて意識した日だった。

雨が本降りになってきたので、回廊の下に避難した。
公園に散らばって、思い思いに日曜の朝を過ごしていた老若男女も集まっている。小型犬を抱いているマダム、雨にヤキモキするように走り回っている小学生グループ、缶コーヒーを飲んで雨を眺めている老人、狭いスペースでバント練習をする父親と少年。
人間が一箇所に集まったせいでやけに騒々しく、公園の隣にある建物へ入ってみた。看板には、勤労者福祉センターという文字。
入ってすぐの受付に、警備員のおじいさんが座っている。ちらとだけこちらを見る。
受付の向かいには、各種チラシの入ったラック。ざっと見渡した。

気になるものを手に取っては、概要だけをスマホにメモする。こういうのって持ち帰るとゴミになるだけだ。だいたい、興味が湧いても、立ち去った途端に記憶から消えているのが常である。チラシを見て公演なんかに出かけることは稀だし、メモを見返して調べ直すことさえほとんどない。要は単なる暇つぶしだ。
背後で、とん、とんと音がするので振り返ると、警備員のおじいさんが肩たたき棒で凝りをほぐしている。俺はあんたの家に来たんか、と胸の内で呟く。くつろぎきった警備員がいる施設ってなんかいいので、警備員の人はみんなパジャマとか着ててほしい。
しかし行政施設に置かれているチラシや、駅なんかにあるフリーペーパーって、どれぐらい読まれてるんだろう。置いてるってことは、それなりに読まれてるはずではあるが。
俺は、活字に飢えながらも本という物体に馴染みがなかった幼少期にたぶんついた癖で、そういうものにかなり手を伸ばす。そのたび、一緒にいる人に驚かれたりする。というか、大抵の人は俺に驚くというより、そんなものどこにあった、というふうに驚く。風景になってしまってるらしい。
フリーペーパーの編集後記とか、売り物じゃない気安さか、わりと熱かったりして面白いのだが。

出ると雨はあがっていた。
教会へ行った。入り口で初めてだと言うと、貸出用の聖書と讃美歌集、今日の礼拝のプログラムや近々の催しなんかが書かれた冊子をくれる。
初めての方には形式的に書いていただいてるんです、と名前や住所の欄がある紙を手渡された。なんとなく、住所をちょっと偽る。書いてから、罰当たりかなと思うが、ボールペンなので消せない。修正すると、嘘をつこうとしたことが明らかになってしまう。そのままにして返した。
信仰があるわけではなく、ちょっとした興味で訪れたので、片隅で眺めるつもりだったのが、案内役のような男性の隣に座らされた。
同じ苗字ということがわかり、覚えやすくて良かったと笑う。礼拝の流れの説明などしてくれる。
聞きながら、教会って結構コミュニティなのか、と感じる。ちょっと覗きに来ただけなんだけどなあ、と思いながら、そういえば自分は金を払ってここに来たのではないし、この人もきっと教会から金を貰って世話を焼いているのではない、つまりサービスの提供者と客という立場ではないわけで、ある程度は向こうのルールに従う他ないと考え直す。
皆が立つのを見て立ち、座るのを見て座る。讃美歌なんてひとつも知らないが、皆が歌うのを真似て、なるべく歌った。
牧師さんの説教は、新約聖書で、ペトロとかいう男が、イエスへの信仰を否認する場面について(もちろん聖書の知識も俺にはないので、以降細かいところが間違えているかもしれない)。
四つの福音書の、いずれにもある場面だと指摘することから、説教が始まる。否認の後、ペテロが激しく泣く場面が、ヨハネ福音書にだけはない。そのことの意味をどう考えるか、古い神学者の解釈など引きながら、説いていく。
説教ってこんなに批評的な語り口を使うのか、と意外だった。もっとテキストと実存を重ね合わせるようして読んでいくものだと、勝手に思い込んでいた。とはいえ牧師さんの説教を聞くのも初めてなので、人によってスタイルはだいぶ違うのかもしれない。
なにかやって、讃美歌を歌って、またなにかやって、という具合に進行していく。祈るような心持ちに至るほどのこともなく、まわりと同じ動きをすることにずっと意識が向いていた。
最後、牧師さんが近く誕生日を迎えるという紹介が教会の方からあって、皆で拍手をして祝った。牧師さんは恐縮するような照れたような笑顔を浮かべていた。ほっこりした。
一時間ほどで礼拝が終わった。
帰り道の道中、道端で煙草に火を点けかけて、なんとなくやめた。どうせまたすぐに失うだけだが、俺のようなダメ人間に日曜日の数時間だけでも道徳心ってやつを抱かせるんだから、礼拝って値打ちあるなあ、と思った。


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