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ぼくの住む町では、一年に一日だけ夜空が消える




昼飯を山ほど食べた。本当に山ほど食べた。
王将のランチ定食。天理系ラーメン、唐揚げ、ライス。無料だからとライスを大盛りにしたのが間違いだった。王将のサービス精神を舐めていた。

天理系ラーメンというのは、白菜と豚肉がたっぷり入ってにんにくを効かせた辛いラーメンのことで、奈良の天理市発祥だからそう呼ばれる、のだと思う。南大阪に生まれ育った自分にとっては昔から馴染みあるものだから、味はよく知ってるけど歴史は知らない。馴染みあるものって得てしてそんな距離という気もするし、俺がものを知らなすぎるだけとも思う。

天理市といえば何を措いてもまず天理ラーメンと天理教のイメージだが、教団名が地名になってるってすごいことだなと素朴な驚きを持つ。その土地に生まれ育つってどんな感覚なんだろう。
PL教団のシンボルである異形の塔が聳え立つ町へ、小さい頃はじめて行った時のことを思い出す。こんな塔をそばに見上げながら暮らす町にはどんな人生があるんだろうだろうと、不思議なような恐ろしいような、なんだか遠い気持ちになったものだ。

PL教団が主催する花火大会の豪壮さは、少なくとも天理系ラーメンよりは全国的にも知名度がありそうだ。ラストには夥しい数の花火が打ち上げられ、爆撃のような音とともに刹那、夜空が昼間のように染め上げられる。昼間のようにというのは修飾の文句ではなく、本当に昼間のような明るさになるのだ。
俺の生まれ育った町では、近所の緑地公園の小高い丘の上に見物客が集まって、足元に咲く小花と同じくらいにしか見えない花火を鑑賞したものだが、そんな遠さでも最後だけは頭上に広がる夜空が見事に染まり、歓声がわいた。いま調べてみると、公園から打ち上げ場所までは10km以上の距離があるようで、つくづく異様と言うしかない大事業に思えるが、これも信仰の為せる業なのだろうか。しかし塔のもとで暮らすほどではなくとも、一年に一日、夜空が真昼の空に変貌する光景を目の当たりにして育つというのは、それはそれで心になんらかの色を落としそうである。「ぼくの住む町では、一年に一日だけ夜空が消える」なんて、どこか小説の書き出しじみている。

もはや押し付けがましさすら身勝手に感じながらも昼食を食べ切り、帰路コンビニに立ち寄った。カフェオレを飲んで、タバコを吸う。
つかれたあ、という呟きがふと口をついて、自分で自分を滑稽に感じた。腹一杯飯を食って疲れたもない。しかし極限の満腹感が、スポーツをした後の甘い怠さに似ていたのは確かだ。真逆のことをしたわけだが。

カフェオレとタバコは言うまでもなく合うけれど、最近は麦茶を飲みながらの時が多い。こうも暑いとタバコを吸っていようがいまいがとにかく麦茶をがぶ飲みしているからだが、これが意外と合う。いや、合わないんだけど、その合わなさが良い。お互いがお互いの細かな風味を消し合って、変に薄まった苦みだけが舌の上を流れていく。尾を引くものがなくて、さっぱりする。



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