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誠実な回想


最近やめている酒を(といってもまだひと月程度だが、今までの人生で最長の断酒である)、おぼえたのは15の頃だった。
それからはひたすら酔う生活だから、言わば希釈された人生を送ってきた。
酒を飲んでいない自己イメージが子どもの頃しかないことになる。しかし子どもの頃もこれまた人生という感じはしないので、まともに生きていた時期というのが見当たらない。
頭がまっしろになるような、新しく生き始めるのだと浮足立つような、妙な気分だ。

ゼーバルト『アウステルリッツ』を、なんだか10代の頃のような食い入り方で読んだ。夢中でページを捲っていたら、知らないうちに窓の向こうの空の色彩が変わっているなんてのを、久々に味わった。
原文が良いのか翻訳が良いのかわからないけど、文章がべらぼうに上手かった。起伏なく静かに織りなされながらも、ささやかなノイズを絶えず孕んでいる文体。外国語が全く出来ない身でも「翻訳、苦行やったろうなあ……」と思わされる、時間の水滴のとっぷり染み込んだ、重い美文だった。
要は延々と過去を想起している話だ。思い出すこと、あるいは忘れることを巡る話だ。忘れていたとさえ忘れていた何かが甦る瞬間の、時の流れが混沌とする、生温かい手触り。あるいは全てを思い出せても、かつてそこにあった何かを取りこぼしているという、虚しい手触り。記憶の手触り。

昔のことを思い出すのが苦手だ。あんまり過去を覚えていない。いや、正確に言えば「昔あったこと」はよく覚えている。それが「エピソード」になっていれば。自分にとってエピソードにならない、あるいはエピソードから削ぎ落とすべき、無意味な細部があんまり思い出せないのだ。
例えば古い友人と、昔話に花を咲かせる時。俺は、当時から何度も語り慣れた話をしか思い出せない。そういう時に誰かが語ってみせる、かつてあった取り留めない瞬間。その澄んだきらめきに、強く惹かれる。
昔の自分には話を盛る癖があったから、語り慣れたエピソードでさえ、事実かどうか怪しいところがある。
昔は今よりも人に何かを話すのがやたらに好きで、あったことを誰彼構わず話して聞かせていた。相手によってリアクションが違うから、その都度それに合わせて話を改変させる。そうして、誰に何を喋ったかも覚えていなくて同じ相手に同じ話をしてしまい、前に聞いたのと違うと指摘されることがしばしばあった。本当のところを聞かれても、もう思い出せないのだった。
以前、友人と深夜に散歩をしている折、たまたま彼の通っていた幼稚園に行き当たった。
懐かしいと繰り返しながら無人の校舎や校庭を眺めていたのだが、校舎の裏を通る細い緑道を歩いていてふと、彼が大きな声を上げた。校舎のほうから、嗅ぎ慣れていたのにいつのまにか忘れていた、教室の匂いがしたと言うのだった。
感嘆のため息を洩らして黙り込む彼の横顔には、先ほどまでよりも更に濃密な郷愁が滲んでいた。それを見た時、ああ、いいなあ、と思った。

アウステルリッツのように、あるいは教室の匂いに沈黙した友人のようにして、過去を思い返してみたい、と思う。
拙くても、遠回りでもいいから、なんというか、誠実に。




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