Aさんのこと ちょこっと権利と義務と、運動のこと

いつものごとくなにか結論があるわけでもなく、とりとめも無い話しであり、中年おじさんの昔語りです。


学生時代から最初に就職した職場時代にかけて、今から35年前ぐらいのことだったと思う。
肢体不自由を抱える障がい者の学習支援(そのときの内容は主に識字教育)のお手伝いをしたことがある。
お相手は当時三十代後半から四十代に向かわれていた方だった。
ここでは仮に、その方をAさんと呼ぶことにしよう。
その人、その方、でもいいのだが、後段にもうお一方、Bさんという方が登場するためだ。


日本は江戸時代から寺子屋などがあり初等教育が早くから行われてきた、それゆえに文盲率も低く識字率は高かった、ということだけ聞いているとびっくりするかもだが、私が小学生のときぐらいまでは学校教育法内の規定を下に、重度・重複障害を理由に義務教育すら受けることが出来ない人がおられた。
程度にも依るが、現在五十代後半から六十代以上の方で、学齢期には障がいがすでにあった方々の中で、いわゆる義務教育である小中学校教育を受けてない方はけっこうおられるのだ。
現在、一般的にはこのぐらいの世代の方は、精力的に活動されている世代だと自分は思うのだが、どうだろうか。
いわゆる団塊の世代、と呼ばれる先輩諸氏よりは、幾分か若い世代の方々である。

実は現在もこの規定そのものはあり、保護者側の「教育を受けさせる義務」の免除猶予規定であるものの、色々な理由で義務教育を受けていない子どもさんも一定数いるのだ。

障がい者に関しては、前年の309号通知に続き1979年に養護学校(今でいう特別支援校)が義務教育となるまで、私が直接に関わった重度障がい者の中で何人か、小学校中学校に行くこと無く(もちろん訪問教育等の保障も無く)学齢期を過ぎ、在宅や施設での生活をされていた。
自分が大学に行かせてもらうこととなった時点から見れば、まだ数年前の話だった。

Aさんも障害が重い、という理由で学校教育を受けることが出来ず、その年齢までずっと在宅のまま過ごされている方の中の一人だった。
身体的にはかなりの麻痺があり水平移動は自力では電動車椅子を利用されてはいたが、ごく普通に会話が出来る方であり、私が関わっていた障がい者関係の色々な行事にも送迎があることを前提として参加されていた。

当時、私が関わっていた障がい者関係の幾つかの団体は権利保障運動を目的としていたところも多く、色々な署名運動にも取り組んでいた。
自分達で作った地元の熊本市や熊本県、あるいは議会宛ての陳情や請願もの、それに加えて団体が加盟している全国組織からの国会請願など、年間にしたらそれなりの数があったと思う。
私自身も市や県だけではなく、九州の運輸局や全国組織の国会請願運動などにも携わらせてもらっていて、そのAさんと一緒に交渉や請願・陳情にあたったことを覚えている。

そのAさんは、私が署名などの話しをするときによく「私は学校に行っとらんけん」と断られることが多かった。
熊本弁での語尾に付ける「けん」は、理由を表す「から」と置き換えることが出来る。
「私は学校に行ってないから(文字が読めないので署名は出来ない)」という主旨だったと当時も今も、思っている。
署名するしないで議論した記憶は無く、たとえ署名しないにしても私もAさんも入っている運動団体がどんな活動をしているのかは分かってほしくて、署名の中身をなるべく噛み砕いて説明することは毎回やっていたように覚えている。

Aさんと知り合って二年目ぐらいだったと思う。
私との会話の中でAさんが「Bさんは、よかもん。あん人はちっとでん学校に行っとらすけん」と言ったことがあった。
話しのきっかけは忘れてしまったが、おそらくは文字が読める読めないの内容だったのだろう。

Bさんはやはり肢体障がいがありAさんとほぼ同世代だったが、上肢障がいは私からはAさんに比べ少し軽く見え、小学校にも数年は通ったとの話だった。私やAさんと同じ団体に入っておられ、Aさんほどでは無かったが行事や学習会にもたびたび参加されていた。
Bさん本人との会話の中で「平仮名は何とか読める。漢字もふりがながあると読めるが意味が分からないことはある」ぐらいの感じだったと思う。

単純にAさんから見てのBさんへの嫉妬、と言ってしまえばそれまでだが、当時の私には「これだ! ここだ!」と思えてしまった。
当時大学で教育学部に在籍していた若造が「学校教育を受けていない障がい者に識字教育をする」ということに勝手に高揚感と義務感、それとともに自らへの選民意識や変なプライドのようなものが、ごっちゃになっていたのだと思う。
なぜあのときに教育保障の問題を集団の中で論議せず、私とAさんの中での個別の問題にしてしまったのかは後年猛省したことだった。

「ひらがなだけでも練習してみる?」とAさんに働きかけ、機会を見つけて自作のプリントや絵本のコピーを使って2人での勉強を続けていった。
元々会話能力は高い方だったし、一緒になにかやっていく中で視力が落ちている感じもしなかったしで、半年もしないうちに言い回しがやさしいひらがな文であれば、音読することが可能になっていった。
本人もとても喜んでおられたし、そのことそのものは自分自身に取っても良かったことだと思っている。

その後、漢字かな混じり文読みへのハードルの高さを自覚した私の気後れと、Aさん本人とご家族が信仰されていた宗教と障がい者団体との微妙な絡みの中で、関係が段々と薄れていってしまった。


当時私が抱えていたのは、自分のような不勉強なものと一緒にやっても、Aさんは少しは文字が読めるようになれた。これが学校や複数の教員が関わる中で系統的な教育保障がなされていたら、また違った人生を歩まれていたのでは、という気持ちだったと思う。
今でも当時のことを思い出すと、こうしたらよかったのでは? 集団化は? 組織化は? 個別保障においてもなぜ全体化を計らなかった? 専門職になぜ繋げなかった? 等々、自分への多くの疑問と反省が渦巻いてしまうのだ。


義務教育の「義務」は、ある子どもの周囲にいるはずの「保護者」や「行政」の側の「義務」だと思う。
子どもの側が持つものはあくまでも「教育を受ける権利」の方だ。

そしてこちらはその「権利」側の話ではあるが、このところの新型コロナウイルスへの感染対策の中、登校停止が続いた小中学校現場では授業をオンライン化する動きがあり、登校が再開された後にはタブレットの貸与等が一気に広がった気がしている。
教員をしている姉の話しを聞けば、オンライン化の中で、昨年まで不登校気味だった児童の中でとても活動的になり、登校再開後は休みなしに来れるようになった子どももいるし、逆に昨年度よりも休みがちになった子もいるという話だ。
それでも現場や教育委員会が「学校に来れないときには無理しなくていい」と表立って伝えるようになったことはとてもいいことだと思っている。
「教育を受ける権利」を持つ子どもに取っては、教育内容の保障を前提とした上で、心理的なハードルを下げること、次回の登校意欲と機会を下げないことは必要なことだと思うからだ。


私が生きているこの数十年の中でも、かつては常識だったことが非常識へと、その逆もまたたくさん起こってきたと感じている。
様々な権利はヒトが生まれながらにして持つものだと思うが、その一つ一つの保証については、人類がその歩みの中で、少しずつ少しずつ、獲得し、勝ち取り、手繰り寄せてきたものだと思うのだ。

障がい者に関わった運動の渦中にいたときによく使っていた(使われていた)標語というか、スローガンというか、そういうものが私には幾つかある。
障がい者運動だけではなく、保育や教育、医療やうたごえなど、色んな社会運動の中で培われてきた言葉だと思っている。

「冷たい頭と、熱い胸と、たくましき腕(かいな)と」

「生きる権利、学ぶ権利、働く権利、社会参加の権利」

「集団・個人・社会の発達の系」

これらも文言の成立過程を見ると、運動の高まりと習熟の中、だんだんと言葉が追加されてきたものだった。


運動の中身もその主体も、取り巻く環境も、その様子を表すはずの言葉も、おそらくは主体的に関わる部分と波が届き変化していく周囲との関わりの中で、揺らぎ、変化し、少しずつ「自由」へと到達度が高まっていく。
私自身、熊本地震での避難所運営からの経験や町内会での動きの中で、一人暮らしや何らかの際に支援が必要な高齢者に地域としてどう対応していくかを考えていくことが、こと運動に関しては自分の中心になってきている。
そのような色々な流れの中に私自身も周囲の人達も確実にいて、互いに描く螺旋が少しでも上向きになるように影響しあえればいいなと、心から願う。


自分が1人のゲイとして「結婚の自由をすべての人に」という運動を目にし、1人の障がい者福祉高齢者福祉に関わってきたものとして「発達障がいを持つ子どもにも合理的な配慮を」と願う御家族の願いが書かれた文章を見て。
私自身が、具体的に何をなしていけるかは、まだまだ分からないけど。