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お前が死んだら誰が喪主やる?

「お前が死んだら誰が喪主やる?おばあちゃん、それが心配で死ねん」
99歳の祖母はずっ私の葬式の心配をしていた。

こんなピンピンしている孫娘のことを。

「おばあちゃん、私はまだ40歳やよ。私のことは私が考える。おばあちゃんは自分の葬式の心配して!」

「おばあちゃんの葬式はお前にあげてもらう。でもお前には葬式してくれる人がおらんやないか。今から役所に行って、死んだ時に焼いてもらうように頼んでこい!」

帰省のたびに繰り返されるやり取り。さすがに私も心配になる。

「私の葬式、誰が誰がやる?」

私は20歳代で結婚した。すぐにでも子どもが欲しく、いつ妊娠してもいいように大きな家を建てたが妊娠することなく40歳を迎えた。その間に夫の両親も私の母も、親族のほとんどは他界した。

夫には妹がいるが疎遠になっている。

私が先に死ねばいいが、祖母は「絶対女の方が長生きする」と言い張る。私もひそかに心配していた。夫が先に死んだら私の葬式は誰がやるのだろう。

母一人子一人祖母一人の家庭で育った私。母は若年性認知症で10年以上闘病の末、他界した。一緒に母の介護をした祖母は、両足大腿骨骨折しようと、不整脈になろうとそのたび不死鳥のごとくよみがえり99歳まで一人暮らししていた。

120歳くらいまで生きそうな祖母であったが、さすがに99歳を超えてから家事をこなすのが大変になり、私が実家に通い家事全般を手伝う生活が始まった。

祖母の人遣いの荒さは半端ない。

仕事を終えて、実家に行くと広告の裏にカタカナで書かれた「やることリスト」を渡される。部屋の雑巾かけ、お風呂掃除、ネズミ捕りにかかったねずみの処理…
まるでお手伝いさんのようだ。

筑150年以上の我が家にはねずみがたくさんいた。人様の前には姿を見せないのがねずみだが、我が家のねずみ達は白昼堂々生け花の水を飲みに来る。

もはや家族だ。祖母はそんな家族をネズミ捕りで捕まえるのを楽しみにしていた。

「今日、何匹かかった?」

かかっていませんように・・・とネズミ捕りをみると、黒い物体が張り付いている。目をつぶってそれをごみ袋に入れるのが私の最も私の嫌いな仕事だった。

祖母には5人娘がいたが、祖母の面倒を見て欲しいと頼んでも伯母たちは何かと理由をつけて実家には来なかった。

こんな人使いの荒い祖母の所には来たくないだろう。


「生きとってもいいこと何にもない。5人も子供産んでも誰もおばあちゃんの面倒見てくれん」

祖母はよくそう言って嘆いた。

99歳の誕生日を家で迎えたあと、祖母は急激に足腰が弱り、たままたま受診した病院で肺がんと診断された。

やっぱり…

祖母は80歳までヘビースモーカーだった。そして寝る前と朝起きてすぐ布団の中で煙草を吸っていた。

「火事になるからやめて!」

母が注意しても聞くような祖母ではなかった。終始こんな感じで自己主張が激しかったから、実の子供も疎遠になっていったのかもしれない。

肺がんと診断されて2か月後、祖母は自分ががんということも知らないまま天国へ旅立っていった。入院してからは、私の葬式の心配をすることもなくなり、それが寂しいくらいだった。

祖母の死後、私は特別養子縁組で2人の子供を迎えた。生まれてすぐ我が家に来た長女と、生後6か月で迎えたダウン症の長男。

「養子縁組?」「ダウン症?」色んなことを言う人がいるが、血のつながりも、障害も私には関係ない。

家族のきずなは血縁ではない。

仲がいいのが一番いい家族。

祖母は身をもって教えてくれたように思う。

いっしょに暮して喜怒哀楽を重ねることで家族になれる。

人生は何があるかわからないから本当に面白い。
祖母が生きていた頃はこんなにぎやかな日常がやってくることは想像だにしなかった。

娘には少しずつ生んでくれたお母さんがいることを伝えている。
4歳になった娘がある日、無邪気にいった。

「私、その人のこと知ってるよ」

「えっ、なんで」

「この人が私を生んだお母さんでしょ」

娘が指差した先には「祖母がこれを遺影にしてくれ!」と言い張り、遺影に使った30年前の祖母の笑顔があった。

70歳の祖母は一目で人工毛とわかるツヤツヤのカツラをベレー帽のように頭にのせていた。

見栄っ張りな割に、細かいことは気にしなかった祖母を思い出してなんだか笑えた。


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