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「細川家」というややこしい家の話(後編)

先日アップした「前編」の続きです。
前編では「麒麟がくる」に登場している細川晴元(演:国広富之)について述べましたが、今回はもう一人の細川、すなわち細川藤孝(演:眞島秀和)のことについて述べたいと思います。

細川藤孝の出生

細川藤孝は、足利幕府の直臣・申次衆(将軍に拝謁を希望する諸氏と将軍との間を取り次ぐ役目)の一人、三淵晴員の次男として西暦1534年(天文3年)に生まれています。

この三淵晴員は、元々は細川家の一門「細川和泉上守護家」七代目の細川元有の次男でした。しかし、元有の正室(妻)が三淵晴貞の娘という関係から、次男坊である晴員が母親の実家である三淵家を継いだという流れになっています。

その晴員の次男である藤孝が、今度は細川和泉上守護家の系統を継いでいるので、ちょっとややこしいですよね。

細川和泉上守護家

ここで出てきた「細川和泉上守護家」は、細川家の庶流で、細川宗家・京兆家初代・細川頼之(足利幕府三代将軍:義満の補佐役/管領)の甥に当たる細川頼長を初代とし、頼之の養子・基之と共同で和泉国守護職を務めていた家です。

共同でというと、半国守護(国の半分を支配する)の形をよく聞きますが、和泉の場合は、半国ではなく、2人で1国を共同で支配するという特殊な形となっていました。頼長の血統が「上守護家」となり、基之の血統が「下守護家」となります。

西暦1495年(明応四年)、前述の「上守護家」七代目・細川元有の時に、紀伊・河内(現在の和歌山県と大阪府東部)の守護大名である畠山尚順と手を結び、「下守護家」の細川基経と共に、当時の細川京兆家当主にして足利幕府管領であった細川政元に対して挙兵しますが、結果は大敗して政元に降伏。

しかしその5年後の西暦1500年(明応九年)、今度は畠山尚順が和泉の守護所である岸和田城に攻撃を仕掛けてきたため、元有、基経共に両者とも自害します。

上守護家の後を継いだ嫡子・細川元常は、西暦1507年(永正四年)、細川政元暗殺後に起きた細川澄元高国の間の養子同士の跡目争いに巻き込まれます。

元常は澄元側として戦いますが、澄元が高国に敗れたため、澄元と共に阿波(徳島県)に逃れました。そして和泉の守護代である松浦氏が高国側に寝返ったため、元常は自動的に和泉の守護職を失い、和泉上守護家は一時的に没落することになります。

澄元の病死後、元常は澄元の嫡子・晴元を支え、晴元が高国を滅ぼした後、西暦1531年(享禄四年)、24年ぶりに再び和泉守護職に復帰しました。しかし和泉には嫡子・細川晴貞を遣わして支配させていることから、この時点で守護職と上守護家の家督は晴貞に譲られていたと思われます。

藤孝養子の謎

ところが、この「和泉上守護家」九代目を継いだと思われる細川晴貞には1つの謎があります。

それは西暦1538年(天文七年)、足利幕府十二代将軍・足利義晴が、細川元常に対し、元常の甥に当たる三淵晴員の次男・万吉(後の藤孝)を養子に迎えるように命令していることです。

しかし、この当時の和泉上守護家当主は前述の通り晴貞のはずです。なので晴貞の養子に迎えろならともかく、将軍家の命令は「万吉を元常の養子に迎えろ」ですので、筋が通りません。

では、晴貞はこの時点ですでに亡くなっている可能性があるかというと、彼の名前はこの後の江口城の戦いでも出てきますので、それもおかしいです。

ま、経緯はどうあれ、ここで万吉(藤孝)が細川家に養子入りした事実は間違いないようです。

西暦1546年(天文十五年)12月、将軍足利義晴の嫡男・菊幢丸(11歳)が元服して将軍職を譲られ、足利幕府十三代将軍・足利義藤(後の義輝)となりました。

これに伴い、万吉改め与一郎は義藤より諱を賜り、細川藤孝を名乗ることになります。これ以後、藤孝は幕臣として義藤に仕えることになります。

細川和泉上守護家の終焉

前述の通り、和泉上守護家は一時没落したものの、晴元政権によって復活しました。しかし、そのまま安穏とは行かなかったようです。

細川晴元の腹心・三好政長と、三好氏当主・三好長慶の勢力争いが武力闘争に発展した西暦1549年(天文十八年)6月、摂津国江口城で起きた戦いで、元常・晴貞親子は晴元に味方しますが、三好政長が討死。晴元が将軍家を連れて近江に逃走したことを受け、元常はこれに同道(晴貞は生死不明)。

和泉国守護代の松浦氏は三好長慶に味方していたため、和泉国は再び松浦氏の支配に戻ってしまいます。そしてその5年後の西暦1554年(天文二十三年)6月、元常は病死しました。

ここに、細川家庶流・和泉守護家は実質的にも名目的にも滅亡したのです。

藤孝、表舞台に出る

元常の死後、家督を継いだのは養子の藤孝でしたが、すでに守護職も領地もなかったため、そのまま幕臣として将軍・義輝(1554年、義藤より改名)に仕えることになります。

そして藤孝の名前が歴史の表舞台に出てきたのは、皮肉にもその将軍義輝が暗殺された「永禄の変」からでした

西暦1565年(永禄八年)5月19日、三好義継(長慶養子・三好氏当主)三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)松永久通(久秀の子)らは、1万の兵を以って将軍の住まう京都二条御所を取り囲み、直訴を訴えましたが、このやり取りの間に戦闘が勃発。御所内は乱戦となり、将軍家供回りの警護武将を含め、将軍義輝までもが討死したのです。

三好三人衆らは義輝だけでなく、僧籍に入っていたその末弟も殺害しました。しかし、義輝次弟の覚慶だけは京におらず、大和国の興福寺一乗院門跡に入室していたため難を逃れ、松永久秀によって幽閉されていました。

三淵藤英、細川藤孝兄弟は、同じ御供衆である一色藤長、和田惟政、仁木義政らと相談し、大覚寺門跡・義俊を通じて、興福寺に渡りをつけ、覚慶を興福寺から脱出させることに成功します。

近江国に入り守護・六角義賢・義治父子の承諾を受けると、近江国野洲郡矢島村(滋賀県守山市矢島町)に落ち着きます。そして西暦1566年(永禄九年)、覚慶はこの地で還俗して足利義秋(のちに義昭と改名)を名乗ります。

その後、若狭国守護・武田義統越前国守護・朝倉義景らを頼って上洛を促しますが、それぞれの思惑があり、事は動きませんでした。そして西暦1568年(永禄十一年)6月、朝倉義景家臣・明智光秀の仲介により織田信長を頼ることになり、その使者を藤孝が務めました。

織田信長は義昭の要請を受け入れ、その2ヶ月後の同年9月、義昭(義秋改め)を奉じて入京。藤孝もこれに従いました。

またこの時、三好三人衆によって擁立されていた足利幕府十四代将軍・足利義栄(かつて晴元が擁立した足利義維の子)が病死。翌月10月18日、義昭は征夷大将軍宣下を受け、足利幕府十五代将軍に就任します。ここに足利幕府は前将軍の血統に戻ったことになります。

将軍家直臣から織田家臣へ

信長と義昭の蜜月は3年足らずで終わり、義昭は西暦1571年(元亀二年)頃から、中国地方の毛利氏、甲斐の武田氏、越後の上杉氏、摂津の石山本願寺などに密使を送り、信長に対する反抗勢力を養い始めます。

この義昭の動きは将軍家御供衆である藤孝などに全て筒抜けで、藤孝も密書で義昭の動きを信長に伝えていました。信長はその藤孝の忠義に報い、同年、山城国長岡一帯(京都府長岡京市)を藤孝に与えます。

この時、藤孝は勝竜寺城(京都府長岡京市勝竜寺)の城主に据えられ、姓を「長岡」に改めました。

幕府御供衆である「細川」の名跡を捨て、支配地名を取って新たな姓・長岡を名乗るのは、幕府直臣から決別であり、織田家家臣への随身の現れだったのではないかと思えます。

一方、実の兄である三淵藤英は藤孝の決別について激怒し、勝竜寺城攻めを計画するほどでした(実行はされていませんが)。

以後、藤孝は織田家の武将として数々の戦闘に参加。のちに織田家の畿内勢力を統括する明智光秀の与力に加えられ、西暦1578年(天正六年)には、信長の命令で、藤孝の嫡男・忠興と、光秀の娘・玉(ガラシャ)の婚儀が成立。長岡家と明智家は姻戚関係となり、より強固な結びつきを築きます。

西暦1580年(天正八年)には光秀と共に丹後国南半分(京都北部)を平定。藤孝は丹後半国を領有することを認められ、宮津城(京都府宮津市鶴賀)に入りました。

本能寺の変

西暦1582年(天正十年)6月2日、明智光秀が織田信長に対して謀反を起こした「本能寺の変」が勃発。光秀は、自分の有力な与力大名であり、また姻戚関係でもある藤孝に助力を要請しますが、藤孝は剃髪して信長の弔意を表し、田辺城(京都府舞鶴市/舞鶴城)に蟄居。家督を嫡男・忠興に譲って、出家・隠居することで長岡家を守ろうとしました。この時、藤孝は幽斎玄旨と号しています。

長岡家の家督を継いだ忠興は、正室であり明智光秀の娘であった玉(ガラシャ)を、丹後国味土野(京都府京丹後市弥栄町)に幽閉し、光秀への協力を拒絶しました。

山崎の合戦で光秀が滅んだ後の忠興は、羽柴秀吉の天下統一事業に協力し、丹後一色氏を滅ぼして、丹後国を完全平定、秀吉より丹後国の領有を認められます。

一方、藤孝改め幽斎は、羽柴秀吉の客将としてその天下統一事業を文武両面から助け、都合6,000石の領地を秀吉から得ています。

また、この頃の幽斎は武将としての活動さながら、文化人としての活動に重きが置かれているようです。

その後の幽斎

秀吉死後の西暦1600年(慶長五年)6月、忠興が徳川家康の会津征伐に参陣した関係で、幽斎は三男の幸隆と共に丹後国の田辺城(本能寺の変の時に幽斎が蟄居した城)を守備することになります。

しかし、翌月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、田辺城は1万5000の敵の大軍に包囲されました。幽斎が指揮する籠城勢はたった500兵にも関わらず、これに果敢に抵抗。1万5000の敵兵を田辺城に釘付けにすることに成功します。

しかし、このままではいずれ城が落ち、幽斎が死ぬことを恐れた、八条宮智仁親王(幽斎から古今伝授を受けた弟子)は、自分の兄である後陽成天皇に「なんとかしてくれ」と上申。

その結果、同じく幽斎より古今伝授を受けた三条西実条(参議)、中院通勝(権中納言)、烏丸光広(蔵人頭)が使者として田辺城に赴いて、幽斎を説得し、同年9月13日、勅命による講和が成立。幽斎は城を明け渡し、前田茂勝(豊臣家五奉行・前田玄以の子)の丹波亀山城で囚われの身となります。

とはいえ、関ヶ原の戦いで東軍が圧勝したので、幽斎は解き放たれ、以後は京都で死ぬまで悠々自適に過ごしたと言われます。

西暦1610年(慶長十五年)8月20日、京都の自邸にて死去。享年77でした。

その後の細川家

なお、幽斎より家督を継いだ長岡忠興は、関ヶ原の戦いの後、「丹後国宮津(京都府宮津市)12万石+豊後国杵築(大分県杵築市)6万石=計18万石」から、「豊前国中津(大分県中津市)33万石+豊後国杵築6万石=39万石」という大大名に出世しました。

その後、大坂の陣の後に「長岡」姓から「細川」姓に復姓し、長岡姓は細川一門の姓として長岡内膳家(廃嫡された忠興の長子・細川忠隆の系統)、長岡刑部家(前述の幽斎の三男・幸隆の系統)に受け継がれます。
(かつて家康が「徳川」と「松平」を分けたのと同じですね)

また、忠興の三男・忠利の代には、幕命により肥後熊本54万石に転封となり、そのまま明治維新まで熊本藩主であり続けました。そして、この血統が平成の時代に入り、第79代内閣総理大臣・細川護熙氏の輩出することになるのです。

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