第3話「大友家と大内家」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)
大友家の家督を相続した大友義鎮は「二階崩れの変」を収束させて事後処理を行ないつつ、先代義鑑の重臣五人衆を当主直轄の諮問機関とし、また執行機関として佐伯惟教(豊後栂牟礼城主)、戸次道雪(豊後国鎧ケ岳城主)、臼杵兼続(筑前柑子岳城主)らを重用して領国運営体制を固めつつありました。
ところが「二階崩れの変」翌年の西暦1551年(天文二十年)周防国、長門国(現在の山口県全域)を支配していた戦国大名・大内義隆の家中で、隣国である大友氏にも大きな影響を与えかねない事件が起こります。
【解説】戦国大名・大内氏
大内氏は、古代朝鮮半島の国家「百済」王族の末裔から端を発した一族で、鎌倉幕府時代には六波羅探題(鎌倉幕府京都支社)の評定衆の一人として名を連ねていました。
足利幕府の時代に入り、最盛期では、和泉国(大阪府の一部)、紀伊国(和歌山県全域)、周防国・長門国(山口県全域)、豊前国(大分県北部)、石見国(鳥取県西部)の6カ国を領する有力な守護大名になっていました。
しかし、その勢力の強大さを、足利幕府三代将軍(現代の内閣総理大臣)である足利義満に
「あいつの勢力、ちょっとヤベーんじゃねーの?」
と危険視され始めました。
当時の足利幕府は、天皇が二人いる南北朝時代を解消して皇統を統一すると、幕府の官僚機構である管領(現在の内閣官房長官/副総理)の任命機構(三管領)や、侍所所司(現在の防衛大臣 兼 警察庁長官)の任命機構(四職)などの整理が終わり、幕政は安定の道を進んでいました。
その上で、幕府の権威向上のため、有力守護大名への統制を厳しくする方向性の矢先に、大内氏が挙げられていました。
西暦1399年(応永九年)、足利義満は、大内氏10代当主・大内義弘に謀反の嫌疑かけてこれを征伐(応永の乱)。義弘は戦死。所領は全て没収となりましたが、のちに跡を継いだ大内盛見が周防、長門2カ国の大名に改めて封じられています。
時は流れ、西暦1541年(天文十一年)一月、大内氏16代当主・大内義隆は、出雲国(島根県)を支配している戦国大名・尼子氏の居城、月山富田城(島根県安来市広瀬町富田)を攻めました。
しかし、戦は大内氏が不利のうえ、国衆(地方領主)の離反が相次いで撤退に追い込まれます。さらにその途中で義隆養嗣子の大内晴持の乗った船が転覆し、晴持が溺死してしまったのです。
周防に帰国後、義隆はショックで、軍務や政務を省みないフヌケと化してしまいました。
大友晴英の再養子
西暦1551年(天文十二年)、大内義隆家臣・陶隆房(すえ たかふさ)は、戦国大名としてはフヌケと化した義隆を見限って、密かに謀反を計画していました。
しかし、隆房には下克上を起こして大内氏を滅ぼし、義隆に取って代わる考えはありませんでした。
そこで、同年五月、母親が大内氏の出身で、一時期、義隆の猶子となっていた義鎮の弟である大友晴英を、次期大内氏の当主として迎え入れたいと打診を、義鎮のもとに遣わしました。
晴英は、西暦1544年(天文十三年)に、一度、義隆の猶子となっていたのですが、翌年、義隆に実子義尊が生まれると猶子契約を解消され、大友家に戻っていました。
義鎮は、隆房からの使者の口上を受けると
(こいつ、俺の弟を操り人形にして、裏で大内家を牛耳るつもりだな)
と直感で感じ、隆房の要求を一蹴します。ところがそれを聞いた晴英が激昂して義鎮に面会を求めてきました。
「兄上!周防の陶隆房殿より我を大内家の養嗣子にしたいとのお話がきていると聞きました」
「ああ、確かにその話はきておる。が、わしの一存で断った」
「何故にござりまするか!」
「考えてもみよ。そなたは一度、大内氏に養子に出された身。それを義隆公に嫡男ができたという理由で大友家に戻されたのだぞ。そして今またそなたを大内家に戻して欲しいときた。いくらなんでも虫が良すぎるだろう」
晴英は義鎮の言い分を黙って聞き、いちいち頷いていました。
「それにな。陶隆房が今回再びお前を養嗣子を求めてきたのは、魂胆があるのだ。」
「魂胆?」
「聞くところによれば、大内家中は陶ら武断派と、相良武任ら文治派に別れ、一触触発の状態だそうだ。陶らは文治派を一掃し、大内家を再構築しようとしている。そなたはその神輿として乗せられるのじゃ。そんなところに弟を行かせられるか」
「兄上のご厚情、誠に胸に染み入りまする」
「わかれば良い」
そう言って座を立とうとした義鎮を
「されどそれはこの晴英の真意ではございませぬ」
と語気を強めて晴英が言ったため、義鎮の動きもピタッと止まった。
「真意ではない.....ではそなた、陶の要求をのむと言うのか」
義鎮はそう言いながら元の座に戻りました。
「兄上。陶殿は兄上を値踏みにきたと推察つかまつる」
「値踏み?」
「言葉を変えれば、肝を試しにきたと言うても良いかと」
「解せんな」
「兄上は昨年の二階崩れの変を収め、大友家中をご自身の体制に再構築されました。本来、あのような変事が起きれば大なり小なり燻りが残るものなれど、豊後、筑後、肥後において謀反が起こるわけでもなく、領国は平穏を保っておりまする」
「いまのところはな」
「それゆえ、陶殿は兄上の器量を見にきたのです。豊後守護の大友家と豊前守護の大内家は隣国同士。境を接する新しい当主がいかほどの器量のものかを」
「そうすると、この話は虚構か?」
「そこまでは分かりませぬが、兄上の肚を試しに来たのは間違いないかと」
「すると、この話を蹴ったワシはどう見られたかの」
「おそらく『大友の主は隣国の事情に疎く、先も読めない腰抜けよ』という感じでしょうか」
「うーむ......」
晴英の言葉に義鎮は大きく頷くしかありませんでした。
晴英は義鎮の理解を得たと見ると、両手を床につけて構えると
「それ故、それがし、この話、お受けしたく存じます」
と頭を下げました。
驚いたのは義鎮でした。
「いやいやいやいや.....もし陶の話が本当だったら、そなたは神輿に担がれるのだぞ」
「さりとて、この申し出を断って『やはり大友家は腰抜けよ、晴英は臆病者よ』と笑われる方が、よっぽど恥でござる。それに、大内家当主としてこの晴英が据わっておれば、大内家は大友家に手出しができませぬ。さすれば兄上は安心して兵馬を西と南に割けることができるのではございませぬか」
「む......」
ここまで言われては義鎮も反論できませんでした。
大内家とはこれまで戦闘と和睦を繰り替えし、過去になんども婚姻関係を結んでいるものの、隣国同士と言うこともあり、絶え間ない緊張関係が常にありました。
しかし、晴英が大内家当主になれば、その緊張関係は一時的に安定するのは間違いなく、それによって大友家が得られる利も大きいのもまた確かでした。
義鎮は晴英の進言を入れ、陶の使者に「自分としては反対であるが、晴英当人がそれを望んでいるため、お受けする」と返答せざる得ませんでした。
大寧寺の変
同年八月二十日、周防大内氏の重臣、陶隆房ならびに内藤興盛(ないとう おきもり/大内家譜代・長門守護代)らは挙兵し、文治派の一掃を企みました。文治派は主君・大内義隆を擁立していたため、陶ら武断派の挙兵は実質的に義隆へのクーデターになりました。
これに対する義隆の動きは非常に鈍く
「陶や内藤らに何ができるやら....まぁ、そのうち収まるだろ?」
みたいな甘い考えをもっていました。
ところが、陶・内藤の謀反に同調する大内家譜代家臣が後を絶たず、義隆は翌29日には山口を出て長門国(山口県北部)に逃亡しました。
義隆は海路を使って石見(島根県西部)の吉見正頼(義隆父・大内義興の娘婿、すなわち義隆の義弟)を頼って亡命するつもりでしたが、荒波で船が出ず、やむなく大寧寺(山口県長門市深川湯本)に入って船を待ちました。しかしそのうち隆房の軍勢に寺を包囲されてしまいます。
打つべき手を全て失った義隆は覚悟を決め、同年9月1日、嫡子・義尊と共に大寧寺で自害しました。
大内家第17代当主・大内義長の誕生
それから翌西暦1552年(天文二十一年)1月までの間、陶は大内家中の文治派の粛清を完了。3月3日、大友晴英は、陶隆房によって大内氏17代当主に擁立され「大内晴英」となりました。またこの時、陶隆房も晴英から一字(晴)を賜り「陶晴賢(すえ はるかた)」と改名しております。
さらに、翌年西暦1553年(天文二十二年)春、当時の日本政府・足利幕府の13代将軍・足利義藤(後の義輝)から一字を授かり、諱(名前)を「晴英」から「義長(よしなが)」と改名。同年閏一月、従五位下 左京大夫に任官。左京大夫は近年大内家が家督相続時に世襲してきた官位であり、これにより、義長は名実共に大内氏当主に就いたと言えるものでした。
陶は、義長が大内家当主に就いたことを知らせる使者を義鎮に遣わせました際、義鎮に筑前国博多(福岡県福岡市博多区)の貿易利権を与えています。
これは陶から義鎮への、弟を大内家へ養子入れさせてくれた返礼であり、また義長の実家への恩返しとも言えるものでした。
この貿易利権によって、大友氏は中国・朝鮮とのラインができ、その交易によって莫大な富を手にすることができました。また、大内義長(周防、長門、筑前、豊前)と大友義鎮(豊後、筑後、肥後)の兄弟支配ラインの成立により、長年の大内・大友間の緊張状態を緩和することができ、義鎮は筑前、豊前の国衆に対しても強い影響力を及ぼすことが可能になりました。
ところが、豊後を本拠とする大友家にとって北の脅威は去りましたが、大友氏の領国であり、隣国でもある筑後、肥後では別の企みが進行中だったのです。
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