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穂村弘の言うことがよくわかる

はじめての短歌という本を少し読んだ。

なんというか、前々からこの人のことは好きだったんだけど、読みながらハッって笑っちゃうくらい、この人の言ってることが面白くてよくわかる。

なんてことのないくだらないでも追いかけたくなるあれやこれについて、きちんと考察してあって説得力があるのが更におかしくて、かんたんに幸せな気持ちになる。あれやこれが実はすごいことのように見えるからおかしいんだけど、多分実は本当にすごいことで。日常に隠れてる自分のキラキラこれかも、ていう感覚は海でシーグラス見つけるときと少し似てると思う。

私はいま有給消化なかで、一般的な社会生活からやや切り離された生活してるので、ヒトが生きていくのに二面性を求められることを客観視しやすいような気がする。例えば、仕事で一緒してる人から見ると私は鋭いとか、細かいことに気がつくとか言われるけど、家でハンバーグや鮭を焼いて、 ちょっと生っぽくない? って旦那さんに連日言われる。仕事で言われる私についての言葉を旦那さんに言ってもあまり信じた顔をしてない。(職場ではうっかりなのがのちのち、わりとすぐばれる。)

ヒト、かくあるべし。っていうのが皆の共通概念で、いわゆるちゃんとしてなきゃいけない、ってやつ。定職についてなきゃ、とか、平日昼間に図書館に来るのは高齢者とママは分かるけどあんたは何者?っていう目線を勝手に感じるとか、不思議となんでかそんなフィルターを持ってて、共通してる。で、日中そんなちゃんとした人を隠れ蓑にして、家に帰って、全然違う自分がいるっていう不思議。だって家でちゃんとするのもやだけど、されたらもっとやだよね。めっちゃ窮屈。だから自然に使い分けてる。外の世界に求められるヒト、かくあるべしと、そうじゃない自分。二面というよりは塩梅かもしれない。この人には、この場面では、に応じて調合してると思う。だって面接受けてる私と家にいる私って対極だもんね。

そうじゃないと回らない世界を、コンビニエンスストアを、肉声のしない駅のアナウンスを、私達は求めた。して、世界かくありけり。そして、何かドンづまりを勝手に感じてる。いや、ほんとにそうなんだよ、穂村さん。

私、こっちに越してきて、私の生活の中に登場するウェイトが人間より虫とか鳥とか花とかが東京にいた頃よりぐぅぅぅんって増えてるんだよね。犬はもともと超マークしてるからウェイト高いママなんだけど。あと海街だからか猫も多い、体格よくて、きちんと座ってる白いコと、キジトラっぽいコがいる。あと海岸沿いに半裸のおっさん多い。

で、たぶんその一方で、社会的な便利さっていうものが結構遠のいた。コンビニは駅まで行かなきゃないし、スーパーだって前は駅前にいくつもあって仕事帰りに寄ってたから、こんなとこ暮らして週末しか車で買い物いけないと牛乳ないとか卵足りんとかどうすんの?って思ってたけど、ぜーーーんぜん生きてけた。別に死なん。ラタトゥイユ作るのにトマト缶いるわ、ってなったら、他に選択肢ないから自転車で坂を下ってコープでトマト缶買って自転車でいつものヒルクライムに挑戦する。それだけ。そしてなんか楽しい。なんならアイス買っちゃって、クソ暑いのに溶けるかもしれないしドライアイス無料ですか?とか恥ずかしげもなく聞いちゃって、レジ打ってくれてる人があるよーって言ってるそばから他のおばさんが持ってきてくれたりして、それをリュックにほうりこんでじゃっあざーすって感じでチャリ乗ってアイスを守りきれるかクライムして、謎の達成感味わって。あと地味に電動自転車にゆっくり抜かされるのじわじわ面白い。私こんな必死にこいでんのに静かに抜かれる。

これ30歳手前の女がやることかと言われると結構アウトなのかどうかは、もう割とどうでもいいなと思ってるんだよなぁ。知り合いおらんし。でも転職活動もちゃんとしてるんだよな。そういうときは頭の全然違うところでいーーーーーーっぱいいろんなこと考えてる。人間ってすごいな。

そう、で、何が言いたかったかというと、通勤に一時間以上かけることのストレスが親しい人をなくした悲しみよりも人を不幸にするらしいという文を読んで、須磨に住んだことをまた性懲りもなくうじうじ考え出したんだけど、一方で須磨に帰ってきたときに感じる、生き延びるための世界から生きる世界への帰還感、キカンカンが、割と大事なものになってきてると思うのです。

ホームが2つだけ、改札が一つだけの駅に住める幸せ。薄暗く静かで優しい海が待つ幸せ。とんでもない坂をマスク外して登る幸せ。人の家から夕ご飯食べてるお皿に箸が当たる音がする、どうでもいい家族の会話が聞こえる、夕飯の焼き魚の匂いが強い、生きた街だなって思うところに帰ってくる幸せを、理解するようになったことが、取り戻したことが、私にとって大きい。と思えることが嬉しい。

どっちもホントの私なんだけど、蝶の唇を探していますと素直に言いたい自分をどこかでぶちのめして人前に立っている自覚はある。そうじゃないと困る世界を望んで作ってきた。何ならしがみついてる今だって。大丈夫ねあなたは、と言われることが正しいことだと学んできたから。でも、ほんとはそこですこしだけ、私お弁当の具では柴漬けが一番好きなんですって会話ができる人間になりたいなあと思ってる。

最後に短歌なのか自由俳句なのか分かりませんが私も詠んでみようと思って昨日から考えた。


空席に横たわる寝相自由形のきみ連れて 空飛ぶ船海を渡りく



↑LCC深夜便で台湾行ったときのなっちゃん(友だち)の寝相があまりに酷くて寝相自由形じゃんっていう句。句なのか。そんななっちゃんもいまや母。


結構楽しなって思いました。笑​