最近のバングラデシュについて

「家族との電話繋がった?」

友達の部屋の扉を開けるなり、そう友達に訊ねる。
バングラデシュ政府がインターネットを遮断して1日が経った朝だった。

政府が国で起こっていることをインターネットを遮断することで国際社会から見えないようにし、起こっていることを隠蔽しようとしているとのこと。

VPNの取り方を知っているバングラデシュにいる彼女の友達と聞きづらい電話でようやく何が起こっているのか情報を取っている様子だった。

そもそも何でこんな事に?

Google Mapから
インドの東にバングラデシュ🇧🇩、西にパキスタン🇵🇰という位置付け

バングラデシュは1971年に解放戦争に勝利し、パキスタンからの独立を果たした国。この解放戦争について、友達は、

国として独立する前の話だから、軍事力を確保する国や政府という組織なしで、バングラデシュが他の国へコントロールされることなく、自由でいられるようにという強い思いを持った個人の集まりが戦いに行った。

と言っていた。日本は2600年以上前から国として存在しているから、国としての機能を掴むために戦うみたいなイメージがあまりなかった。でも、新しい国の戦争って、自分の祖父母が建国の瞬間を経験したみたいな状況の中で生きるっていうことなのかぁ、と思った。

で、その解放戦争の軍事的な部分でリーダーシップを発揮したのが、現バングラデシュ首相シェイク・ハシナ氏の父にあたる、ムジブル・ラーマン氏。

この解放戦争と建国に際して、この戦争の退役軍人とその子孫が、公務員になりやすい仕組みを作った。例)公務員採用の30%に退役軍人とその子孫の枠を設ける。

現在働いている人たちは3rd generationという立場で、自分の祖父母が解放戦争を経験したという人たち。この仕組みのことをクオータ(Quota)制度という。この制度に対して、実力で頑張ってきた人たちが評価されにくい社会っていうのはどうなのか?だったり、解放戦争での軍人の頑張りは認めるけれど、3rd generationにまで恩恵を与える必要性はあるのか?などという声が上がっている。

このクオータ制度を撤廃したり、それをまた元に戻したりと言ったことを最高裁判所がしているから、その判断が変わるたびに騒動となっているようだ。ちなみに、軍隊、警察、裁判所は政府によって100%のコントロールされている。つまり、政府が暴走した時に止める仕組みが存在しないということ。実際にその政府の中で行われていることの1つが以下の事例だ。


友達:人々が住んでいる場所がセクター(日本でいう何丁目何番地みたいなニュアンス)と呼ばれるようにわけられているでしょ。そのセクターの中に住む学生の中で誰がヤバいやつかを警察が強制捜査している。

私:何をもって"ヤバいやつ"になるの?

友達:生徒が武器を使わずにクオータ制度の廃止を求めてプロテストしていたでしょ。でも、それに対して、警察は武器を持って、止めに入るわけ。実際、何人もの学生が殺されているからね。

学生たちは、細いインターネットを使って、何が起こっているのか国外にいる知人や友人に情報共有をする。それが警察にバレたら、ヤバいやつって認識されるの。

学生が見たことをそのまま言っても、警察はそれは間違っていますよ、と正してくるそうだ。それをすることで、政府は国内で起こったことを国際社会から隠そうとしている。

私:見たことを間違った情報だ、って訂正されるって、筋が通ってない気がするけど。

友達:筋なんてないわ。今までの選挙で、何年も同じ人が首相になっている。民主主義と言いながら、そうじゃないのよ。首相を毎回違うことを言うし、投票してもそれが反映されていないのがバレバレだから、50%の人は投票に行かなくなってる。

私:今から社会ができることとして、何を求めているの?

友達:政府が隠蔽しようとしていることを起こった事実として国際社会に伝わること。国内にいれば警察に取り締まりがあるから、何かプロテストについて話したら間違いだって言われるし、ネットが遮断されたことに対して、政府はただのネットワークの不備だとか言ってる。そうすることで、誰もちゃんとした情報を手に入れられないように操作しているの。それに対して、強い苛立ちを感じている。

でも、これによって犠牲を受けた人がいるでしょ。最近見たのは、5歳の子がプロテストを鎮めようとした警察に撃たれて死んだ話。これはおかしいし、隠されるべきではないわ。

ここで、強く思うのは、ソーシャルメディアで流れてくる情報が信憑性のあるものか、判断するのは私たちの責任であるということ。まだ、誤った情報を流している人もたくさんいるから。


最近目にしたパレスチナ関連の記事の中で、トランプ前大統領の銃撃事件は大々的に国際社会から注目を集めるのに、パレスチナで殺される子どもの報道は無視なのか、という怒りのメッセージが込められたものがあった。

日本国内の報道が実際どんな感じなのか、今年の夏は日本にいないから、分からないが、「バングラデシュ プロテスト」とググっても、大手のテレビや新聞業界からの記事がひとつもヒットしないことには違和感を覚える。

やはり国や地域によって、国際社会の役割や与える大きさが違うから、報道に偏りが出るのは、止められないことなのかもしれない。でも、全く報道されず、スポットライトが1つも当たらず陰に埋もれてしまう、そして、そこにいた人たちが忘れられてしまうことには、虚しさを感じる。

でも、きっと私も、バングラデシュ出身の友達と、このキャンパスで同じ屋根の下で過ごしていなかったら、ここまで気にかけるみたいなこともなかっただろう。自分が気が付きにくいこと、見えにくいものを見ようとする、これを積み重ねていく感覚を大切にしたいと再確認した今日この頃でした。

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