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悲しい作業

人はみな、夫なり妻なり、ごく近しい人からカメラを向けられると、多少なりともポーズをとり、顔に表情をつくってはニコリとするものである。そう思うのだが。

1,写真アルバム

私は物置の奥の奥から、化石を掘り出すがごとく、アルバムと位牌の入った段ボール箱を引っ張りだしてきた。 
まず、風呂敷に二重にくるまれた小さな位牌を広げてみた。おもてには簡単な戒名、裏には死亡日、俗名○○子、そして享年三十二才、と書かれてある。
包んでいた風呂敷で位牌を拭く。
「これは名を刻んだだけの単なる木片、つまりモノ、なんだ。モノに魂はないのだから、つまり彼女を偲ぶ何ものでもないんだ」
そう自分に言い聞かせてはみるが、やはり彼女を失って後の、心の芯にしまって置いた悲しい思い出が、名前を綴った漢字の隙間から滲んでくるような気がして、私はとてもつらくなった。字をなぞってから、そっとまた風呂敷にくるむ。
今度は6冊ある写真アルバムを広げた。写真を処分しなければならない。通し番号の「6」最後のアルバムは、妻の死の一ヶ月ほど前あたりの写真で終わっている。アルバムのフイルムから一枚ずつ抜き取って、細かく破いて中の見えない紙袋に入れていくといった作業を始めた。
さて田舎とはいえ私の住んでいるのは住宅の並ぶ団地なので、家人がいないとは言え、夜の時間に、庭でボンボンと写真を燃やしてしまおうという訳にはいかない。一葉一葉をみる毎に記憶の奥からそのときの出来事を手繰りたぐり寄せて、うんうんと首肯し、そうして細かく破り袋に入れる。それを小一時間ほど繰り返した。
思えばこうして私はすっかり老いてしまい、でも、ずるいことに妻は32才のままだ。すると、死ぬことの唯一幸せな点は、そこで、その時点で、老いが止まると言うことではないかと、そんな不思議な発見をしたりする。
そんな悲しい作業の中、一枚の写真で私は目を止めてしまった。死ぬ半年ほど前のことだろうか。二番目の子、息子を腕の中に縦に抱いて、そうして彼女は明らかに寂しげでつらそうな瞳をこちらに向けている。
人はみな、カメラを向けられれば多少なりともニコリとするものだ。妻とて例外ではなく他のどれもがこちらに向かって微笑みかけている。でもこの写真は違った。訴えている訳でもないが、少しも笑ってはおらず、彼女は余りに寂しげな表情をしている。
私はあまりに切なくて、少し見たのちにその写真を、手から放し机に置いた。でも他の写真と同じくこれも破って処分しなくてはと思い直して、再び手に持ったのだが、私はまた机上に置いてしまった。
これは廃棄してはいけない、この写真は病気の妻を放っておくどころか鬱陶しがった当時の私の戒めとして、ずっと持っていなければならない、そう思ったからだ。私はなぜこの時にファインダーを覗いたこの時に、妻のつらそうな表情を読み取ろうともせず、悠長にシャッターを切っていたのだろうか。すでにこのとき重い鬱になっていた妻を、なぜ病院に連れて行かなかったのだろうか。激しい自責がまたも私の脳裏をいっぱいにし始めた。この写真は、妻を死なせてしまった自分の愚劣さの、根たる証拠ではないのか。この写真は処分してはならない。ずっと隠し持っていなくてはならない。そう誓ったのだった。

2、墓じまい

手順はこうだ。
まず墓石屋に話を持って行き、墓石の撤去を依頼する。石屋は現地を確認して見積もりをくれる。承諾できたら再び市役所へ行く。そこでは、今借りている、前の妻だけの一画を返す手続きとともに、新たに大きなこの霊園の一角にある「合葬墓」に骨を入れる権利を買う。すべてが整ったら、いよいよ墓から骨を上げるのだ。

3,バチがあたる

思い出したことがある。
ずっと前、私の母は、夏祭りの舞台から転げ落ちて腰に大きなケガをした。それが原因でベッドに寝たきり生活になり、その後、ボケと内蔵疾患が重なって、長い闘病の末に死んでしまった。
寝たきり生活になった頃、見舞いに行った私に、思いついたようにポツリと話かけてくれた。
「こんな事になったのは(死んだ)○○子に冷たくあたったからだ。粗末にしたせいだ。バチが当たったんだ」
確かに私と妻が結婚するとき、父母は妻の両親を極端に嫌っていて、結婚を認めないどころか結婚式にも出なかったくらいだった。でも妻が死んだあと、残された私と二人の子を、私が再婚するまで、この両親が必死になって、誠心誠意、面倒を見てくれたのだから、決してバチが当たった訳ではない。断じて死んだ妻が仕返しをしたのではない。
でも今、私はあの時の母のあの一言を思い出してしまう。
そうして私は、墓のある北の山に向かって目を挙げ手を合わせて見る。妻を大切にしなかった私が、今や、事もあろうに墓を閉じ、骨を合葬墓に追いやってしまおうとしているのだ。このあと誰も維持管理できないという理由で、だ。
バチがあたって当然なのである。でも妻よ。バチはこの私にだけにして欲しい。お前の産んだ娘と息子と、娘の産んだ可愛い孫たちには手をかけないで欲しい。そう祈らずにはおれない。

4,思い直す

今朝のニュースではヤングケアラーの実態調査の結果を報じていた。中学生の5,7%は何かしら、家族の家事、介護、看護をしている実態があるとのこと。小学生から高校生まで、この世の中の隅では,、両親、兄弟、祖父母などに、否応なしに本人の望まない家事を強いられている若者たちがたくさんいるのだ。その横で、何十年も前に死んだ妻の墓をどうするかうじうじめそめそしているおっさんがここにいるという訳だ。
バカじゃねえか、おれ。ぐずぐずしている自分の稚拙な考えに恥じいってしまった。全く恥ずかしい限りだ。自分、ちっちぇえ(小さい)男だな。

目をこらしてよく見ろ。こうして私を頼ってくれている今の妻が目前にいる。遠コロナ禍の下、遠地でがんばっている娘や息子、そして可愛い孫たちがいるではないか。そうだ。墓を閉じたからと言って、彼らにバチなど当たるわけがない。うん、過去に拘泥してばかりいてはいけないのだ。
苦労をしている若い人たちのニュースをみたあとで、ぼんやりとだけどそんなことも思い始めた私だった。