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ポエム耐性度★☆☆☆☆

思えば遠くへ来たもんだ、なんてたまには全身感傷に浸ってみたいけれども、そんなことを口にした途端即座に内なる「ポエム取締り委員会」による自己検閲が入るわけだ。そんな陶酔気味の情感を表に出すなんて無神経で恥知らずだ、とか、歌謡曲みたいな文句を垂れ流すな、とか。なんでこんな窮屈な思いに苦しめられないといけないのか分からなくなってきた。これほど「ポエム的安直さ」を嫌わねばならない理由などどこにあるのか。単なる言語強迫症じゃないのか。「自然言語」はどう洗練させても「論理記号」にはならないし、その「論理記号」もまた明確な思索言語となるには「意味的曖昧性」をあらかじめ含まざるを得ない。

「なぜ無ではなく何ものかが存在しているのか」という問いをめぐる思索をきょくりょく「厳密」に文章化するようになってから私は、「雰囲気の言葉」というものを警戒するようになってしまった。ポエムとはおよそこの「雰囲気の言葉」に属するものであり、「その言葉はやめろ」と私に叫ばせる度合いの高い一群の言葉の総称である。あらためてその定義を迫られるとにわかには返答しかねるにもかかわらず、それは確かに「存在」し、私に確かな反感を抱かせる。そして何よりも腹立たしいのは、私もそうしたポエム的言語からは逃れられていないことなのだ。

特定の言葉が必然的にポエム性(ポエムらしさ)を内包しているわけではない。ポエム性は、ある言葉の使われ方とその残響において露わに感じられる。それぞれの言語共同体にはあらかじめ用意されている〈慣習的感受性〉というものがあり、大抵の場合それに甘え寄りかかるかたちでしか人は日常言語を発し得ない。『存在と時間』におけるマルティン・ハイデッガーの「おしゃべり(Gerede)」にもそんな「惰性」の含意がある。「みんな僕のいわんとしていることわかるでしょ」という共感本位的対人作法によって言葉は「平準化」され「透明媒体化」される。それは、「言葉」がもはや話者や聴き手のなかに特別固有の思索契機を生みだすことがない、ということでもある。

「おしゃべり」はポエムをポエムたらしめる基礎条件(土壌)であり、「おしゃべり」による「言いたいことの先取り共同体」の上でしかポエムはその「凡庸なニュアンス」を周囲に共有させることは出来ない。
「何かがある」という「こと」への驚愕可能性から疎外されている、いわば「存在忘却」という既存の意識状態は、ごちゃごちゃした現象界に満ち溢れる「存在者」への過度な没入ゆえに持続されるのではない。「存在忘却」の状態とは、「生活者的実存」が「存在」と「存在者」の間で宙吊りになっていることであり、そこにおいて「あらかじめただなんとなく世界内を惰性的に漂流」しているに過ぎない。「人生」とはそんな惰性的存在感覚による曖昧で感傷的な時間概念であり、それゆえそうした時間概念を構成する「死」もやはり「通俗的」なものにならざるを得ない。個体として生まれて死ぬ、という一連の「出来事」が「誰もが等しく経験する何か」としてあらかじめ自明視され難なく受容されてしまっているせいで、そうした「出来事」の「驚くべき不条理さ」につまづく余地などあたかもないかのように思わされている。私が「存在論的愚鈍性」と呼ぶものは、そうした「問いからの疎外」による「存在不感症」なのです。
でもこんなこと「分かっている人」には最初から説明不要だし、「分からない人」にはいくら説明しても分からない。わざわざ説明しようとも思わないし、だいたい向こうだって説明など欲していないだろう。こんなこと知ったって何になる。こんな虚しい書き物が他にあるかい。馬鹿馬鹿しい。
マスかいてメシ食ってイオンウイスキーでも買に行くか。

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