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痰壺迷想録(2/938)

(noteでは不定期気紛れにゲロ的雑文を書き散らかすこのアカウントの他に、読んだ本のことなどを真面目に綴っている(つもりの)日記用アカウントを持っている。日記用アカウントが表遊戯だとすれば、こっちのアカウントは闇遊戯である。どっちも精神安定上有効だが、こっちのほうがオナニート的人格を全面に出せるぶん、好きである。クズのクズによるクズのための雑文集。生きるのに何の役にも立ちません)

【子供】いわゆる「子供の相手」が出来ない人間というのがいる。私もそのなかの一人。「何歳になったの?」とか「もうそんなこと出来るんだ、すごいなあー」とかいうふうな、「相手のレベルに合わせた」話し方が出来ない。「子供嫌いだから」ではない。「彼彼女らのなかに理性を認めていないから」でもない。自分でもその理由がよく分からない。もっとも私のなかの別の観点から見れば、生きているほとんどの人間は「子供」である。自分と本来的には何の関係もないサッカーチームの勝ち負けであれほど一喜一憂できる人間を私は「大人」とは呼びたくない。この世界の残酷さを見て見ないふりをしながら無内省に子作りしてしまう人たちのことも「大人」とは呼びたくない。ところで私は「大人」だろうか。数年来、この自問に苦しめられている。「オナニートのお前が大人だって?」「オナニートであるがゆえに大人になれたんだ」。

【自虐】一般的には「他人からの嘲笑の先取り」とされているらしい。ハゲとか中卒とかデブとか笑われるまえに自らそれを「ネタ」にする。「笑いというのは本質的に攻撃であり残酷なものなのだ、だからもし天国があるとすればそこに笑いはないだろう、あるのは無感動な微笑だけだ」というよく耳にする「笑い論」。こういうのを聞いたあとに「それなら地獄の方がマシだ」と大いに高笑いする人たちが、必ずいる。私はこういう人たちのことを「笑いマッチョの人」と呼んでいる。だがこういう言いかたは「正確」ではない。誰のなかにも大なり小なり「笑いマッチョ」の成分が認められるのだから。微苦笑。

【知識】陰毛を剃ったあとの股間には必ずハダカデバネズミがいる。

【絶望】世の中には二種類の人間がいる。おのれの「絶望」に自覚的な人間と、おのれの「絶望」に自覚的ではない人間である。しばしば前者よりも後者においてのほうがその絶望は深い。これキルケゴールだっけ。

【政治家】「政治家はふつうの人々ではない」ということは改めて言うまでもない。「ふつうの人々」は自分の顔写真のあるポスターが町中に貼られてあることや、自分の名前がスピーカーで町中に連呼されることなどに耐えられるはずがない。「ふつうの人々」は「本人」と書かれたタスキをかけて自転車に乗ったり、何本ものマイクを両手に持って演説したり、会ったこともない老若男女に自ら握手を求めたり、公衆の面前で土下座したりはしない。しかもそんな並みの神経ではとても耐えがたい儀式を経てようやく議員になっても、数年以内には必ず「失業」するのである。「ふつうの人々」ではない彼彼女らに「ふつうの人々の倫理感」を求めてはいけない。ところで「ふつうの人々」とは誰のことなのか。俺のことだ。

【全称命題A】すべての親はクソ親である。

【全称命題B】すべての子供は拉致被害者である。

【全称命題C】すべての大人は死に損ないである。

【哲学的蒙昧さ】自殺によって「すべての苦しみ」から解放されると素朴に信じていること。

【無敵の人】現代における架空の動物。

【縁】瀬戸内寂聴と細木数子がほぼ同じ時期に死んだことを知ったときに私の心に浮んだ漢字。


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