リアルに絶望すること(オナニート対話篇3)
オ:オナニート
ハ:オナニートの友人
オ:俺がまだ無能であることのうえに「胡坐をかく」術を知らなかったころ、「まともな市民になれ」圧力を全身で感じ続けていたころ、単独者として生きていなかったころ、「魂の恥垢」で爆弾を作る方法を知らなかったころ、人間の存在を無条件に「善」だと信じていたころ、「命の尊さ」なんて聞いてもほとんど違和感を持たなかったころ、いまよりもずっと邪悪で不潔だった。
ハ:最近この文章の作者、対話形式で書くことが多いようだね。どうしてだろう。
オ:一人称だけで語ると惨めになるからに決まってるだろ。他人に喋らせれば心的ダメージも軽減されるんだよ。ためしに「誰からも愛されない短小包茎の無職中年男」なんて書いてみればいいよ。かりにそれがすべてリアルな自分に当てはまるわけじゃなくても、落ち込むから。死にたくなるから。人はどんなに激しく自虐的言辞を弄しているときでも、やっぱり「自尊心」は捨てていないんだよ。自殺者予備軍のどんなクズにも五分の魂はある。
ハ:いつもnoteに呪詛の言葉を並べているだけある。
オ:もうさいきんは書いてないよ。あそこ健康な奴しかいないから。もっとも世間的な意味でだよ。俺からすればどいつもこいつも不健康きわまりない病人なんだけど。リアルに絶望してない奴らに特有の悪臭がする。俺はそんなやつらのことは信用しない。骨の髄まで絶望しているやつしか信用しない。
ハ:さいきんは何読んでる?
オ:カント。
ハ:女性器?
オ:そういうボケもあるていど教養がないと分からないんだよ。
ハ:俺たちみたいに学歴コンプ強めの人間ほどドストエフスキーだのキルケゴールだのを会話中に出したがるんだよな。
オ:「俺たち」はよしてくれ。俺はFラン大中退だけど学歴コンプとは無縁だよ。三十にもなって「あのときもっと頑張ってれば」なんて滑稽すぎる。いまだに凡俗な「努力信仰」から抜け出せていないんだ。
ハ:学歴コンプはアル中と同じで「否認の病」だって、このまえ君は書いていたね。「気にしてなんかない」という奴ほど気にしているのだと。俺はさいきん「東大生の勉強術」「灘高合格体験記」みたいな記事をみるたび劣等感のあまり胸苦しくなるんだ。文武両道のイケメン高校球児の特集なんかを見た日には・・・
オ:それは君が凡人だからさ。
ハ:君は凡人じゃないのか?
オ:あたりまえじゃないか。「俺」と「その他大勢」はそもそも存在の在り方が違う。「俺」にとってお前らは「単なる表象」に過ぎない。どうやったら一緒になるんだよ、むしろ教えてほしいよ。
ハ:なんか煙に巻かれているような。
オ:凡人はすぐに自分と他人を同一平面に置きたがる。「実存」はつねにいつも俺であって、お前やあいつではない。
ハ:俺か、俺以外か。
オ:俺か、無か。
ハ:オナニートにも思想があるんだね。
オ:オナニートだからこそ思想があると言うべきだな。無能でなければ得られない洞察がある。
ハ:どんなこと?
オ:凡庸であることはそれ自体が暴力である、ということとか。
ハ:君の言う「生命の本質的邪悪性」か。
オ:そう、もちろんこの「生命」ってのは一つの比喩。でもこれはいくら言っても分からないやつには分からない。もっとも俺は「他者」のうちに「自分と同様の知性(洞察)」など求めていないのだけど。「話せばわかる」なんて言い方は「唯一無二の現存在」と「そこに映ずる有象無象」を混同しない限り不可能だ。
ハ:やっぱり何度きいても分からんわ。
オ:分からなくてもいいよ。分かると言われたほうが困るから。そもそも「他者」ってのは理解不可能なものなんだよ。通俗的な意味でも、哲学的な意味でも。
ハ:また来週来るよ。
オ:つぎ来るとき赤テンガ三つたのむよ。トリスクラシックのペットボトルも。
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