さん喬・雲助二師匠の大きさ(のようなもの)に言葉をうしなう|納涼四景〈上〉

納涼四景〈上〉

柳亭左ん坊 手紙無筆
三遊亭兼好 天災
柳家三三  百川
五街道雲助 大山詣り
〜仲入り
柳家さん喬 船徳

国立劇場 小劇場
20220711


こちらは、マガジン『メモログ』の記事です。

『メモログ』は、自分のための感想覚書を蓄積するために作成したもので、ひとさまに読まれることを前提としていません。そのため、文章の体裁が整っていなかったり、構成がめちゃめちゃだったりします。
それから、ネタバレにも気持ち程度にしか配慮していません。
あと基本ザル耳なので、内容が間違っていることもあります。残念ながら。

ご覧くださる奇特なかたは、どうかもろもろ悪しからずご了承ください。


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四万六千日を終えたばかりということもあって、この日はあちらこちらで「船徳」がかかった模様。
小劇場でもトリのさん喬師匠で若旦那の船頭さんが大奮闘。

夏の噺の会だし、仲入り前3、後1の構成だし、仲入り後は調子の変わった噺が聴けるかな?と思ったけれど(ちょっと期待した「牡丹燈記」、ききたいといってもう3年は経ってしまっている気がする……)、久々の徳さんだって、もちろんうれしい。

停まっている船、揺れている船、流れていく船。
船の動きやまわりの景色、船上の騒動まで、細やかな動作で描写してくれるさん喬師匠の船徳のなかでなんとも好きなのは、最後、お客さんが浅瀬を自分の足で歩こうとするところ。
ザブン!って、急に描写が雑になるの、いつも笑ってしまう。繊細と大雑把の絶妙なバランス。

しめやかな人情噺も好きなんだけど、わたし自身が滑稽噺好きだからなのか、さん喬師匠の滑稽噺、どうにも嬉しくなっちゃうんだよなあ。

今年も無事雲助師匠の大山詣りに出会えました。
トゥルーッ…ン!のあの滑りやうがね、大好きなんですよ。なんともいえないあの大仰な表情と、着地した手のかわいさよ。ほんとうに、まんがのようだ。

雲さんの熊さんは、置いて行かれた!となった後のエンジンのかかりかたがすごい。負けん気に火がついて、むしろ、かつてないほどイキイキしだす。

特に熊さんがおかみさん連中を丸めこんでいくところの、楽しそうなことったらない。
あまのじゃく?いたずら好き?いやいや、そんな言葉では生ぬるい。この熊さんは他人を振り回すことを、心の底から楽しんでる。むしろ、こうやって思いっきり悪さできる機会を、じつは待ち望んでいたんじゃないかしらん?とすら思えてくる。いい大人のくせに、あんなふうに無邪気に人を騙して喜んでる人、そうそう見ない。

こうやってイキイキと人を騙くらかしていく熊さんを見ていたら、なんだか、「現代人の視線」のようなもの、を意識してこちゃこちゃと言い訳めいたことを書いていたのが、急に阿呆らしくなってしまった。
なんだろう、この小気味よさは。

多様性という看板のもと、年々影響力を強める外部からの非難の声をおそれて、全方位に配慮せねばと恐れを強めていく我ら。
雲助師匠も、さん喬師匠も、そんなものを悠々と飛び越えて、わる〜いやつのわる〜いところも、ずる〜いやつのずる〜いところも、だめ〜なやつのだめ〜なところも、ただそのままに存在していた。のびのびと落語の世界で呼吸していた。
人物がそこに生きているって、もしかしたらこういうことなのかもしれない……なんてことを昨日の高座を反芻しながら、思う。

師匠方の落語にはそれなりに触れているはずなのに、どうして今あらためて、しかも滑稽話でそう思ったのか自分でも不思議なのだが。ひととしての年輪の差なのだろうか。なんだかもっとずっと大きな目で人間社会を見ているように感じた。

落語のおじいちゃんたちは、ほんとうにかっこいいな。


第5回メモログのメモ:落語をきいた記録というよりは、もはやただの日記。昨日師匠方をみて「大きいな…」という感覚をおぼえたこと、なんだかいまひとつしっくりくる言葉がないんだけど、今の時点であらわすとすれば、こういうことなんだろうと思う。アーア、わたし、七十になったときこんなかっこいい大人になれているだろうか。

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