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2023年12月の記録と締めくくり



自分の「甘さ」と「覚悟の無さ」に気付けるには、十分すぎる1年だった。
2023年12月、今年最後の1ヶ月記録です。


2022年3月。
長い間勤めていた運送会社を辞めた。何も変わらない現状を変えたかったから、という理由。それと、カメラというものを仕事にしていきたくて、自立し、自分の力だけで生きていきたかったから。
しかし、離職してからも現状は変わらずそこにあった。問題は山積みとなって目の前に立ちはだかる。仕事を辞めたからといって全てがいきなり変わるわけではない。ありとあらゆる問題を対処できずにいて、仕事を辞めても家に引きこもることが増えた。何も動けなかった、何にもできなかった。心にずっと雨が降っていて、傘も刺さずにずっと雨に打ちひしがれていた。とてもひどい有様をしていたんじゃないかと、今なら思う。

数年前、SNS間での人間関係が原因で人を極端に怖くなってしまったことがある。誰にも会いたくないし、誰とも話したくない。すれ違っていく人たち全てが敵に見えて、変な目で見られているんじゃないかと怖くなっていた。SNSで何を呟けばいいかわからないし、Instagramに写真を載せたら変なことを言われるんじゃないかと、そんなことを考えると何も動けず、被害妄想ばかりが頭の中に住み着いてしまっていた。

その時代のエッセイを読むと、無理して自分を鼓舞していたなあととても感じてしまう。読みながら心の中で、必死に生きていたあの頃の自分の頭を撫でてゆく。読み終えたあとは現代の自分へ帰ってくる。
過去の自分を救ってくれるのは、未来の自分しかいない。周りにいて支えてくれた人たち、歩けなくなったら肩を貸してくれた人、間違いは間違いだと正面から叱ってくれた人もいた。その人たち全ての気持ちを、僕に注いでくれた全ての感情を無駄にしたくない。その上で、全部まとめて、今この瞬間から過去に変わる自分を救うのは、今この瞬間から未来を生きる自分しかいないのだ。待っていろ過去の自分、お前の人生は俺が救ってやる。お前の人生が報われるように生きてやる。


2022年9月。
裁判所へ行くことになった。6月まで奈良で1人暮らしをしていたが、何も出来なかった頃の自分のせいで家賃を滞納してしまっていたのである。管理会社から裁判関連の封筒が届いた時、僕は本当に何もできないクズ人間だなと心の底から思った。そして自分のことをとても軽蔑した。世間の人間なら当たり前に出来る全てのことを、僕は何一つやれていなかった。こんな当たり前のことができない人間が?カメラで生きていく?お前は何を夢見ているんだと、もっと現実を見ろよ、今やるべきことをやれよ、と自分自身に問いかけ続けていた。
他人から言われる言葉よりも、自分が自分へ訴えかける言葉の方が苦しかった。自分で自分を今までにないほど苦しめていた。自分で自分を殺そうとしていた。
初めて見る法廷の景色に、初めて名前を「被告」と呼ばれるあの感覚。和解調停をし終えて、裁判所をあとにしてからの記憶はほとんどない。現実に打ちのめされて、何の感情も湧かなかった。この頃のことをここで打ち明けられるぐらいに今は心が安定するようになった。



2022年11月。
一緒に生きて支えてくれている人のおかげで京都へ移住してきた。仕事は土日週2回だけ。今まで勤めていた奈良の運送会社で夜勤アルバイトをしているだけで、それ以外何もしていなかった。変わりたかった。今までの自分を救ってあげたかったし、ずっと続けてきたカメラというものを今までよりもっと形にしたかった。変わる為に京都へ、新しく生きる為にガラッと環境を変えた。

生活を安定させる為に今やるべきことを探し始めた。まず京都で働く場所を探し、最低限生活が出来るお金を得た。京都と奈良では地域性によって人柄が少し違っていて、その環境に順応していくのはかなり時間がかかった。噂話が1人歩きしてはすぐ誰かの耳に届く。狭い世界の中で上手に渡り歩いていかなければいけない。人間関係というものは慎重に、かつ丁寧に築いていかなければならない。

2023年3月。僕にはおよそ7年の間、好きで応援している「美波」というアーティストがいて、来年3月に武道館でライブをすることを発表した。デビュー前からファンの夢でもあった武道館公演。これ以上の喜びはないほど、僕の心は喜びに満ち溢れていた。何があるかわからない人生の中で、目的として、目標として、生きていく理由に変わっていた。

笑いたいのです 泣きたいのです
居場所もないこの広い世界で
なにを糧にして生きてゆけばいいの?

水中リフレクション/美波

「水中リフレクション」という曲の歌詞である。何を糧にして生きてゆけばいいの、と問うていた彼女自身が、大きくなって武道館で公演をするにまで成長した。彼女自身が僕にとっての糧となっているように、僕たちファンも彼女の糧となって生きて歌ってくれていたらとても嬉しい。来年3月までは死に物狂いで生き抜いて、彼女の音楽に触れたい。

2023年4月。久しぶりにカメラを持って、東京、大阪、兵庫に足を運んでポートレートを撮る機会があった。結果だけでいえば、全然納得が出来る写真が撮れなかった。全て全力で、持ちうる技術全てを出してカメラを構えたけれど、100点満点なんてなくて、心の底からいい写真が撮れたとは思えなかった。ブランクが決定的なダメージを与えていて、心底がっかりした。僕のために時間を作り会ってくれたひとたちのことを本当に申し訳なく思う。久しぶりにカメラを持っても、まあいけるだろうという心の甘さと責任感の無さ、時間を作ってくれているにも関わらず成果を上げられない自分のスキルの無さ。今一度、自分とカメラをしっかり見つめなければならないと強く思った。



2023年7月。短歌にのめり込んだ。これを皮切りに短歌賞へ応募してみようと考えた。もともとこうしてエッセイやことばにすることが好きだったし、長々長文を書くよりも31文字で感情、思想、概念を短歌作品に落とし込むことは向いているのかもしれないと思った。短歌に出会ってから、目に映る世界が広くなり、視界が大きく開けた。2023年9月。現代短歌の登竜門である笹井宏之賞へ応募した。11月に結果が出たが入賞はできなかった。先人の短歌に触れるたび打ちのめされる。上には上がいる。写真や映像を撮っていても、あらゆる文学を読んでいても上には上がいる。圧倒的な力の差に絶望してしまう。その度にまた、天を仰いでいた顔を前に向ける。何度も膨大な壁にぶち当たりながら、何かに挑戦し、没頭することを大人になってからしていなかったな、とふと思い返す。学生時代は部活に没頭し、没頭しまくった結果最終全国大会に出場することが出来た。学生時代ほど何かに打ち込んだことはなかったから、こうして没頭できることを見つけたこと、そしてそれを今でも続けている自分を少し誇らしく思えるようにもなった。何度も絶望して、その度にまた起きて、また絶望して。その繰り返しに慣れないと、この先の世界はもっと厳しいだろう。



2023年11月。京都に住み、1ヶ月記録を始めてからついに何もかけなくなった。原因は分かっているが、ここではまだ書けるような心ではないから書かないけれど、全ての歩みを止めてしまうほどのことが起きた。1月からなんとか続けてきた1ヶ月記録を止めてしまいそうになった。でも何事もプラスに考えないと何も出来ない。たまにはこういうことだってある。全ての日が、毎日が、1ヶ月が全ていいことばかりとは限らない。不都合や壁はいつだって急に目の前にやってくるのだからこればかりはしょうがない。そこでどう乗り越えるか、この局面をどのようにして切り抜けられるか。今でもまだ傷心しているけれど、まだこんなところで歩みを止めることは出来ない。がんばれ。


2023年12月。ついにここまでやってこれた。ついに2023年を締めくくろうとしている。京都に住んでから必死に生きた。本当に必死に生きた。新しい環境の中、揉まれながらこの荒波を乗り越えて泳いできた。もう生活を整えるだけの自分で居たくない。

今回のエッセイはかなり長文だけれど、本当に書きたかったのはここから。ほんまにごめん!どんだけスクロールせなあかんねん!っておもわはったやろうけど、もうちょっと付き合ってほしい!ほんまにごめん!
(急な謎の関西弁)


冒頭に書いた、「甘さ」と「覚悟」に付随する『カメラ』の話。出来たら最後まで読んでほしい。そしてこれからも僕と一緒に生きて見守っていてほしい。

2019年の冬から僕は、奈良にある運送会社で夜勤の仕事をしている。平日の夜から朝まで社員として働いていたが、2022年3月に退職した。現在は人材不足ということもあって土日の深夜2日だけアルバイトとして夜勤をしている。仕事内容は、深夜に十数台の大型トラックがやってきては重量物の荷物を下ろし、配達先ごとに仕分けるというもの。企業や工場、個人店に配達するものばかりなので、原料や食品、工業製品などが多く、中には高額商品も送られてくる。
そんな会社の中で、あるドライバーと巡りあった。彼の背中を追いかけることになるとは、当時思ってもいなかった。

2019年12月から、彼は大阪から荷物運んできてくれる30代のドライバーで、この会社の中で唯一カメラの話が出来る人だった。気づけば意気投合していて、毎日荷物を運んでくるその都度話をしてくれた。カメラのことだけでなく、彼の奥さんがinstagramのインフルエンサーということもあって、ビジネスの話やSNSでのアルゴリズムを教えてくれたりした。レベルが高すぎる会話を僕は漠然と聞きながら、この人はとんでもない人だなと毎度思っていた。僕は何も変わろうとしていなかった。

少し経った時、「YouTubeやるから」と言って動画編集の仕事を始め、映像分野のことも教えてくれるようになった。初めはスマートフォンから編集を始め、あまりにも時間がかかるからパソコンを買って編集するようになり、カラーグレーディングのことや、参考にしたクリエイターのことも教えてくれた。登録者がもうすぐ1000人になると聞いた時は、本当にこの人はすごい、凄すぎると思った。有言実行、まさに言葉にしたことを確実に実現してみせる人だった。まだ僕は何も変わろうとしていなかった。

少し時が経ったあと、新しくカメラを買い換えるという話を教えてくれた。
「使わないカメラどうするんですか?」
と聞いたら、メルカリかどこかで売るかもしれない、と答えたので、
「僕に買い取らせてください」と申し出た。
それから僕は必死に働き、カメラ以外のことは考えず、給料のほとんどを使って一括で支払い、相場よりも安い値段で2022年2月に「SONYα6400」を譲り受けることになった。このカメラと一緒に僕は頑張ります、〇〇さん(彼の名前)の背中を追っかけます!と意気込んだ。ここでやっと変わろうと決意した。

そのあたりから、彼のYouTube登録者は1万人を超え、Instagramでの企業案件もかなり増えていた。アンバサダーになったり、タイアップだったり、とても忙しい毎日を送っていた。日に日に増えていく目のクマが激動を物語っていて、この仕事にも影響が出ているから近いうちに辞めるかもしれないと言っていた。
彼から沢山の影響を与えてもらって、僕もこの仕事だけでなく何か大きなことを成し遂げたいと思った。目の前でさらに先へ進んでいく彼を見ながら、僕も試行錯誤しながらSNSでの活動を続けた。しかし、精神的な弱さから人が極端に怖くなったりして、結局色々と何か言い訳しながら生きていた。少しずつ更新頻度が少なくなって、アプリを開くことも減ってしまった。どんどん前へ進んでいく彼を見ながら、僕はずっと立ち止まっていた。
そして、僕は2022年3月。これまで書いてきた通り、平日毎晩ずっと働いていたこの仕事を退職することになった。彼は平日の夜にしか会えないので、3月31日が最後の会話になった。

あれからおよそ2年近く経った2023年12月23日土曜日。僕はいつも通り京都から奈良へ出勤してきた。出勤したらまず、従業員別に仕分けられた引き出しの中を確認する。様々な書類が入っているなか、一つだけ茶封筒が入っていた。
彼からの手紙だった。その内容があまりに胸を打つものだったから、こうして2023年最後の記録にこれを残しておくことにしたのだ。

とても大切な内容なので全て書くことは出来ないけれど、特に勇気を与えてくれた部分だけ残しておく。

僕は君と色々と話した中で、少し君の人生を変えてしまったんじゃないかと責任を感じています。なので少しでも君のお手本になれるように自分も努力します。
(中略)
僕は君の20代の人生に、少しでも変化を起こせたら嬉しく思います。
いつか2人とも大きくなって一緒に仕事をしましょう!

本職の運送を全てきちんと終え、家に帰ればYouTubeや企業案件に追われる日々。目の下にひどいクマができたとしてもどちらも両立させ、一家の主としても、ドライバーとして、インフルエンサーとして完璧にこなしていた。
YouTube登録者数はもうすぐ10万人を超えそうになっていて、来年には会社を立ち上げる、とも綴ってあった。

出勤してから早々、これほどかというほどに涙を流した。そして、怒りに似た感情が自分の中で沸々と湧いていた。その怒りの矛先は、これまでの自分の甘さと覚悟のなさによるものだった。彼は、今もこうしている間にも少しずつ先へ進んでいる。それなのに僕はどうだ。精神的にいくらなんでも弱すぎるんじゃないか。何かを成し遂げたい、進んでいきたいと思っていながら成果を上げられず、全て立ち止まってばかりじゃないか。本当に自分を情けなく思った。彼と同じ時間が流れているはずなのに、進んでいった距離はとてつもなく遠くなっていた。

なぜ、僕は彼からカメラを譲り受けたのだ。なぜ、インターネットや通販などでも安く買えたであろうカメラを、なぜあえて彼から譲り受けた?それは、彼と生きていきたかったからでしょ?そりゃあかっこいいじゃんか。言ったことは全て本当にさせて、話した次の日にはこういうことができるようになったと教えてくれる。トライアンドエラーを常日頃から沢山やってきた人だ。憧れるに決まっているだろう。
そして、その感覚を忘れていたことに気づく。大切なその感情を忘れてしまっていた。こうして手紙を読むまで、気づけなかったこと、思い出せなかったことが山のように流れ込んできては、戒めとして深く体に刻みつけた。

仕事を辞めて2年近くが経っても、こうして気にかけて手紙まで送って伝えてくれる人。それだけでもう普通の人と違うじゃないですか、なんでもこんなことされたことなかったから。でも一つだけ悔しいのは返事を返せないことだ。会社経由で渡された手紙ということ。そして彼は12月23日付で退職、ということはもう来年には会社には居ない。住所も知らなければ電話番号も知らない。本当にずるい。

さあ、これからどうする。手紙に対する返事を返せない、もう会うことも出来ない、話すことも出来ないということは、やることは一つしか残っていない。
それは、僕も彼と同じステージ、同じレベルまで駆け上がり、そこで直接会って返事とお礼をすることだ。考えてみれば辞める報告などいくらでも早めに伝えられたはずだし、あえて退職するその日に渡すということは、返事はいらないからここまで駆け上がってこいというメッセージだと捉えれば解釈出来る。(ポジティブすぎるが!!!!)


2023年の締めくくり記録がこんな長文になるなんて思ってもみなかった。読むのしんどかったでしょう、ごめんなさい…。

今一度自分の足元を見直す。そして後悔のないように生きる為には今自分が何をしたいか、していきたいかしっかりと見い出せ。泣いて落ち込んでいれば誰かが励ましてくれるような甘い世界ではないし、そんな世界に居るな。もう後に引けないところまで追い込んでいく覚悟を持て。カメラと一緒に生きるなら、価値を見つけ出せ。僕にしかない価値を、短歌も写真も映像もことばも全て、お前だけにしか出来ないことをやってやれ。そして最高の死に方が出来るように生きてやれ〜〜!!!!!!

2024年の佐野よ、あとはお前に頼んだ!!!!!!!!!!!!!!!よろしく!!!ほな!!!!!!!!!

追記
2023年の1年間、1ヶ月記録を続けてこれた自分を誇りに思います。まずは小さなことから少しづつやってきた結果、最後までやり遂げることが出来ました。本当はちゃんとできなかった点もあるけれど、そこはご愛嬌で許してください。(こういうところが甘いんじゃないの?)
2023年もお世話になりました。あらゆるSNSでたまにしか流れてこなかったツイートやインスタの投稿、来年はいまよりも多く目に触れて頂けるように少しづつ頑張ります。2024年もどうかよしなに。良いお年を!最後までありがとうございました!


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