2024年8月
8月はしっかり夏だった。腕の日焼けはもうどうすることもできないから、細胞が元の色に戻してくれるよう祈っている。
台風の影響で涼しくなった空気、稲穂が頭を垂れて香る秋。夏の終わりを五感で感じながら、ぬるいアイスコーヒーを片手に、記録を書く。
1.大きな円環の中で
これまでの自分と今の自分を比べた時に、変わったところが多く見つかった8月だった。
弱さとか強さとか、憎しみとか傷つくとか、そういったところにばかり目が行きがちだったけれど、もっともっとそれ以前の話だった。
生きていくことにおいての楽しさをどこかに追いてきてしまったような、それこそ夏休みが終わるような感覚を、延々と繰り返していたような気がしていた。
自分と向き合うたびに悲しくなってしまう。自分を成長させようと前を向いて向き合っていたつもりだったけれど、いつも足りない場所ばかり見つめてしまうから。
誰かを大切にしようとする前に自分を大切にする、そうしている間に誰かは離れていってしまう。じゃあ自分を無下に扱っていれば誰かを大切にできるかと努める。結果自分がすり減ってしまう。
何度も同じ過ちを繰り返しながら、大きな円環の中で終わりを必死に探していた。そんなもの見つかるはずがないのに。
誰にも弱音を吐けず、1人殻に篭りながら自問自答を繰り返す。考えても考えてもどうにもならないとわかっているのに、そうすることでしか自分を慰めることができなかった。
2.自分の実力
8月23日と24日。東京に行くたびに、自分の実力のなさに打ちのめされる。今までと違うのは、確実に一歩づつ進めていること、そしてそれを実感できていること。僕は本当に弱い。弱いなりに全力で強くなろうとしている自分がこれまでとは違う感覚がある。東京で会ってくださった方々は、今までだったら絶対に会えなかったし話せなかった。足元にも及ばないし、逆に迷惑をかけているかもしれない。格下の僕に時間を割いてくれているという気持ちを、これからもずっと忘れたくない。もっと大きな形で恩返しがしたい。
3.現代短歌シンポジウム
もう9月に入ってしまったけれど、この事は書いておきたかった。
9/1 京都芸術大学、春秋座で行われた「現代短歌シンポジウム」に参加した。歌人であり短歌会「塔」の主宰である吉川宏志さん、「塔」前主宰の永田和宏さん、翻訳家のピーター・マクミランさん、作家の町田康さん、そして映画監督である是枝裕和さん。足を運ばない理由はどこにもなかった。
この講演会は短歌会の「塔」が主催となっていた。春秋座の入り口で、歌人の大森静佳さんがパンフレットを配っていたので頂いた。現代短歌の最先端を歩んでいる、敬愛してやまない大森さんのお姿を見られただけで来てよかったと心底思った。美しい方だった。
入り口を通ると、講演する方々の歌集や書籍が販売されていた。そのそばでは「塔」が毎月刊行している冊子が無料で置いていて、ふらふら見ていたら声をかけてくださったので何冊か頂いた。
「ぜひ塔へのご入会もお待ちしております。」と声をかけて頂いて、心が揺らめいた。
僕は、短歌一本で活動しているわけではない。マルチで他に活動をしているものですから、言い換えてみればどれもが中途半端で、アマチュアに毛が生えた程度の存在。プラスに言い換えてみれば、マルチに活動しているということは、コンテンツ自体を掛け算していけば唯一無二の存在になれる。それぞれの領域を底上げしていけば、誰も届かない場所に辿り着ける。それは、先に誰もいない道を進んでいるということ。一つの道を極めようとしている人にとっては舐められる存在、無下に扱われ、嫌な目で見られる存在。
4.是枝監督と永田和宏さんの講演による気づき
13:00~17:00。4時間の講演を余すことなく持って帰り、自分のものにしようと決めていた。先人が積み上げてきたこと、レベルの高い多くの人と関わる中で得た知識や経験は、SNSやメディアを見ているだけじゃ理解できないし、手の届かない世界の人に触れようとする為には、彼らの言葉に深く傾聴し、鑑賞者ではなく伴走者として、創作に携わる人間としての自分が居ないと、本当の意味で理解ができないと思っているからだ。
中でも是枝監督と永田和宏さんの対談、テーマ「表現しきれないもの」では、学ばせていただくものばかりだった。映像と短歌。今僕がまさに取り組んでいるコンテンツの両方を、最前線で活躍されているお二人の口から聞けるのは、これ以上ないものだった。
特に印象に残ったのは、「映画制作をしていく中で、どれだけの人が理解して見てくれていると思うか。」という永田さんから是枝監督に対する質問だった。
是枝さんは、全ての観客ひとりひとりに対してではなく、ひとりの顔を思い浮かべ、そのひとりに語りかけるように脚本や映像を制作している部分が大きいとおっしゃられていた。「歩いても歩いても」という作品は、亡くなったお母様を思い浮かべながら制作していたそう。
映像で「10」全てを伝えるのは難しい。このシーンは6割の人に、ここは4割、ここは1割に伝わればいいなど、カット割やシーンによって伝わり方が大きく変わる。
カメラは、行動は撮れるけれど、心理を撮ることはできない。具体的なものしか撮れない中で、心理をどのように表現するか。それは役者の力量にも関わってくる部分ではあるけれど、表情ひとつにおいても動作においても、創作や表現の世界で「伝える」という行為は、プロでもとても難しいことなのだと改めて実感した。
プロでも「伝える」という手段に頭を抱えるのに、僕がそんなことを考えていても仕方がないことなのだと自覚した。
映画館よりもスマホで映画を楽しむようになった時代になり、スマホで見られることを前提として制作している話も興味深かった。
映画館では、隣の部屋で鳴っている音や、窓の外の庭で遊んでいる子どもの声など、「何かを隔てた先での音」は表現出来るけれど、スマホではただの小さい音として捉えられてしまう。映像において「音の遠近感」は表現の幅を広げる重要な要素。そしてこれまで僕が表現してきた中で、「音」という存在をあまり意識してこなかったことにも自覚した。
ここに書いたものだけでなく沢山のことを学ばせて頂いた。メモ帳に残したことを実践に移していくことがこれからの課題。自分から学びにいく姿勢が他者と差をつける。学校に行っている訳でもないし、誰かが教えてくれる訳でもない。
その姿勢の大切さを今回の講演で身に染みるように感じた。もっともっと求めたい。自分の中だけで完結してはいけない、考えることは必要だけど、考えすぎて動けなくなるくらいなら、はなっから動きまくればいい。
永田さんがおっしゃっていた。
自分の内側のものは、たかが知れている。自己表現とは、世界の外側にある複雑さを表現すること。発見は作り手の内部ではなく、外側にある。
5.これからの自分へ
講演に足を運んでから決定的に考えを改めることになったのは、今まで実力がないことを悲観的に感じていた自分だった。
実力がない
=今の自分の実力を理解出来ているということ、伸びしろがある。
悲観的に感じる
=高い領域で生きている人と関わる機会が多くなったいうこと。
謙遜と悲観は大きく異なる。自尊心は前提として大事にしなきゃいけないし、もっと胸を張って生きて良いような気がした。そもそも本当に悲観的に思っているのなら、新しい世界で生きようとすることも出来ないし、辞めてしまってもいい。今でも続けているということは最悪な意味で悲観的に思っていないということも分かった。
誰かに伝われ!見てくれ!以前に、自分の心情を自分で分かっていなかったことに気づいた。加えて、今まで感じてきたこと、やってきたことは無駄になんてなっていなかったこと。全ての感情が、全ての通ってきた道が僕には必要だった。随分回り道をしてしまった気がするけれどね。
9月からはさらに足を運ぶ場所も増える。感じる事も考えることも変わってきた。また来月の自分に期待して、全力でしぶとく生きようか。
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