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横浜六国峠ハイキング

六国峠ハイキングコース 平成三十一年三月十四日

 横浜駅から京浜急行に乗り金沢文庫へと向かう。車内は、平日の昼らしく混んではいないが、座れるほど空いてもいない。扉の側で外を眺めることにする。川に沿って列車は街中を進む。しばらくするとトンネルに入る。横浜は坂が多い。いかにも港町らしい。
 同じ港町でも、神戸は街全体が一つの大きな坂だった。なので昔の神戸育ちは、自転車に乗れないことを自慢した。そのような話は横浜では聞いたことがない。ここは海から陸にかけて小さな丘がぽこぽこと続いている。海から一つ、二つの丘をへだてたあたりを京急は走っていた。すこし遠くに湾岸線や臨海の工場群が見える。磯子のあたりかと見当をつけると杉田を過ぎた。

 金沢文庫に着く。道中に商店があるのかわからないので、駅のホームでスポーツ飲料を買っておく。改札を出たところで、パン屋があったので買うことにする。なれないトングでおそるおそるパンをトレーに移す。
 トングといえば、小さいころに連れて行ってもらった動物園ではアシカの餌やりができた。餌は魚の切り身で、それをトングで掴みアシカに投げやるのだが、トングごと投げてしまいそうで遠くに放れなかった。切り身は、人のための柵と、アシカのための柵との間に落ちてアシカには届かなかった。トドのような店員を見て思い出した。

 駅を出て、ハイキングコースに向かう。線路の脇を流れるドブ川に沿って横浜のほうへと歩く。途中、老人が川を眺めていた。つられて覗いたが昭和かと思うほどに汚い。ドブ川の汚さだけは、駅の近くの風景と違い、十分に都会だった。
 踏切に行き当たると、ハイキングコースの標識があった。その標識にしたがい左に曲がる。下調べでは、次は、どこかで右折のはずなのだが標識がない。どんどん住宅街へと入って行く。標識はないが、前方には目的地とおぼしき小山が見える。どうにかなるだろうと思い、さらに進むと、二又の分岐となった。

 左が丘に向かう登りになっているので、それに進む。左手に山の斜面を見ながら道は登っていく。脇には放置された自転車やゴミ置き場がある。ずいぶん生活臭がする道だ。よそ者の立ち入りを拒むような雰囲気がある。
 案の定、行き止まりの看板がでてきた。看板は、地元住民によるもののようだ。それには、「ハイキングコースは看板の正面の山」なる謎の一文が書かれている。設置者は、ルイスキャロルきどりなのか、単なるxxなのか。付き合う気にもなれないので、謎は無視することにして、登りの手前まで引き返す。二又を今度は右に進むとハイキングコース入り口の標識が見えた。

 ハイキングコースに入ると、すぐに山道然となった。左右からは土の壁が迫り、幅は二、三人が並べるほどの狭さになる。地面は、天然の岩石なのか、岩石風の舗装なのか固く歩きやすい。傾斜はそれなりにきついのだが、スタート直ぐの高いテンションからペースが速くなる。

 しばらく登るとひらけた場所にでた。立て札によると、ここが能見堂の跡らしい。思ったよりもはやく着いた。札には、能見堂の由来が説明されている。能見とは…、何かくだらない地口だった。能見堂は、江戸のころは有名な景勝地であったそうだ。だが、いまは見る影もない。埋め立てのせいか海が遠い。海の他に見えるのも、ただの地方都市の住宅地だ。趣きのある鄙びた山村などではない。そもそも、堂跡は周りに木が多く見通しが悪い。
 首を伸ばして、残念な風景を眺めていると、ガサガサと音がした。視界の下のほうで人影が動いている。どうやら、少し下ったところで雇われの作業夫たちが、何やら作業をしていたようだ。そばには軽トラックが停めてあった。どこから入ったのか気になった。

 堂跡を越えると、道は左右の二つに分かれる。左は平らか、右は下りになっている。せっかく登ったのに、すぐに降りてはもったいない。なので、平坦な左側に進んだ。その先は、比較的広い土の道につながっていた。さっきの軽トラックはこれを通ってきたのだろう。整備されたグラベルは、歩いてもおもしろくない。なるべくなら自然を味わいたい。適度に人工的な自然を。引き返して、右の道を降りる。降りた先には、池があった。

 池は、不動池という。不動池には二組のアベックがいた。
 一組は、大学生ぐらいの男女で、池のそばのベンチに座り仲睦まじく語らっている。そのベンチの前を通らなければならないのだが、邪魔をするようでどうも気まずい。しかたなく、池辺に寄り、さも池棲生物に興味があるふりをしながら池をのぞき通り過ぎる。
 池は、藻のためか茶緑色をしており、透明度が低く何も見えない。顔を上げてあらためて池を見回す。池は、アラビアの壷のような形で、奥にかけて狭くなっている。インレットもアウトレットもなく、見るからに循環が悪そうだ。池のまわりは、手前の岸辺のみが小石で舗装されており、他は、人の手が入っていない。奥は、急斜面が迫っていて、斜面に生えた木の影が池面に落ちている。その影に釣り心がそそられる。ボートでも出して影の際を狙ってみたくなる。ベンチの先には、池に突き出してあずまやが建っている。
 そこにもう一組のアベックがいた。遠目には、一人は、釣り竿を持っているように見えた。近づくと、竿は、三脚の付いたカメラだった。カメラには長く大きな望遠レンズが取り付けられていた。アベックは、定年退職後とみられる男二人で、何やら楽しげに話をしていた。三脚ごとカメラを振り回して木々に向けたりしている。おそらく、鳥か、ベンチのカップルでも狙っているのだろう。

 桟橋の脇を通り抜けると出口になってしまい、アスファルトの舗装路にでた。さっきの恋人たちが普段着なのに納得がいく。左右を見回すと、別の入口らしい階段が見つかる。下から見上げた階段は、幅が狭く角度がえらく急な上に結構な長さだ。登り口の脇に碑があった。題は「審判」である。裁判所の決定を碑にしたらしいが、何のためなのか意図が理解できない。 

 階段を登っていくと水音が聞こえてきた。登りきると、正面にごく小さな滝があった。実際のところ滝と呼べるほどではなく、目の高さほどで湧き出た水が壁を伝って流れ落ちているだけだ。落ちた水は、小川となって左手に消えてゆく。これが下の池に流れ込んでいるのかもしれない。反対の右手に目をやると、お不動さんがあった。その小さなお堂は、朽ちてはいないが、手入れが行き届いているわけでもない。道は左手へと小川に沿うように続く。
 小川には、石橋が架けられて、その先に、縁起らしきものが記された碑が建っている。碑を読むために石橋を渡る。お堂とどうように手入れのあとがなく、足を掛けるのが不安になる。これら石橋や堂宇に比べると、碑は、妙に綺麗だった。新しいためというよりは金がかかっているからだろう。
 碑文は、出だしから意味不明なポエムが延々と続く。うんざりしつつ文字を追うと半ばに至りようやく本題に入る。
これは、博識と思い込んでいる人間が、無理をして、かしこまった文章を書くときの典型だ。難読漢字を使いたがる中学生のようでほほえましい。だが、知識をひけらかしたいだけの文など読むにたえない。どうせなら、いっそうのこと全文漢文で書くぐらいの気概がほしい。この縁起や審判の碑は、地元民が縄張りを主張するためのマーキングの一種なのだろう。いかにも田舎臭い人間がしそうなことだ。

 お不動さんを後にすると、道は再び林の中へと入っていく。道は、斜面を横切るように山腹に沿って延びているのだろう。これまでと違い、緩いアップダウンの繰り返しになる。その坂のいくつかは、踏み板が設けられていて階段状になっている。ステップの間隔が広いので歩きにくい。歩幅を強制されるのはおもしろくないし、何より疲れる。そう思う人が多いのか、階段の脇が踏みならされて、けもの道のようになっている。それを利用させてもらうことにする。
 山側の右手に、木々の間からマンションが見えた。声がとどきそうなほどに近い。マンションはおそらく尾根に建っている。さぞよい眺めなのだろうと思ったが、能見堂からのつまらない景色が蘇る。谷側には、体育館らしい建物や住宅が見える。マンションほどではなかったが、こちらも近い。軽い登山のつもりだったのだが、どうやら、ただの公園の散歩だった。リュックの大きさが恥ずかしくなる。
 後ろから駆け足の音が聞こえてきた。トレイルランとはハイカラな、と振り返ると、中学生ぐらいの男の子が一人勢いよく駆け降りてくる。ウェアからすると陸上部だろう。ちょうど脇を歩いていたので、立ち止まって見送ると、横をぴょんぴょんと駆けていった。その後ろ姿は女の子にも見えた。兎でなくても区別がつかないものだと、木蘭を思い出した。
 しばらく進むと、前から多数の車の走行音が聞こえだした。出発前に見た地図では、確か、近くに横横道路が通っていた。他に音がしないせいか、ひどくうるさい。自動車の騒音にさらされながら、自然の緑に包まれているというのは、実に奇妙に感じる。横横道路は、少し見下ろすところを通っており、その料金所が見えた。ゲートの文字は釜利谷と読めた。

 道が横横道路から離れて、その音が聞こえなくなってほどなく、アスファルトの駐車場に着いた。駐車場は、車が少ないせいもあって、かなり広くみえる。ジムカーナぐらいなら余裕でできそうだ。駐車場との間には柵があり入ることができない。公園の一部と思っていたが、民間施設のものなのかもしれない。
 柵はずっと続いていた。柵のどちらが内側というわけではないはずだが、こちらの道が細いためか、外を歩いているようで落ち着かない。おまけに、道そのものが異常だった。ここには、いわゆる側溝のふたが、中央に一列に敷きつめられて、その上をパコパコと歩くようになっている。排水用の溝を埋設するときにひらめいてしまったのか。

 その小粋な小路を過ぎると、ロータリーにでた。バス停があり、見慣れない配色の小型のバスが停車している。バスの運転手は暇そうに携帯端末をいじっている。おそらく、ゲームか、キャバ嬢からのメッセージに返事でも書いているのだろう。バスの表示によれば、ここは動物園らしい。野毛とズーラシア以外に動物園があるとは知らなかった。バスの背後には遠くアーチ門が見える。
 あたりにハイキングコースの道標はなかったが、案内図はあった。その地図によると、コースは動物園の中を通り抜けることになっている。ハイキングに来た人間から入場料をせしめようとは、いかにも小役人が考えつきそうなあこぎなアイデアだ。

 しかたなく、動物園との横額が掲げられた門に向かう。入場料を調べようと門の脇を見回したが、チケット売り場が見当たらない。門自体にも、ターンスタイルや改札などは設けられておらず、すっきりしている。ここは、ゲートがあるだけで、料金の徴収は行わないようだ。
 ゲートの脇には便所がある。その便所の横のベンチに二人連れの親子がいた。小さな子が、ここにする、と機嫌よさげに母親に宣している。そのベンチで食事を摂りたいようだ。母親は他の場所に移るようやさしく諭しているが、聞く耳をもたない。二歳児なのだろう、本当にご苦労なことだ。横を通り過ぎる際に母親にエールを送る。もちろん、外見は無関心なふりをしながら心のなかでだ。なんでも事案になる世の中なのだ。李下に冠を正さず、他人に声をかけず。

 ゲートをくぐると、またゲートが見えた。本来の動物園の出入口だろう。家族連れがちらほら出てきている。動物園には寄りたくもあるが、日暮れまでの時間を考えると、その余裕はなかった。
 迂回ルートを探していると、そばの茂みから何かが飛び出してきた。それは、その勢いのまま、木に飛びついて駆け登っていく。見上げると、落葉した枝にリスがいた。リスは、ちょろ、ちょろ、と小動物特有のリズムで先に進んでいく。枝がリスの重みで撓んでいた。
 ふと、意地悪をしてリスを木の上に閉じ込めてみたくなる。根元に近づいてプレッシャーをかけてやろうと、バカなことを考えていると、いきなり、リスが隣の木に跳び移った。枝と枝の間は1メートルもあっただろう。リスの全長からすれば結構な距離だ。映像では見たことがあった光景だが、目の当たりにするとビックリする。思わず声が出てしまった。一匹で探餌中のリスをジッと見つめていた行為者が突然声を挙げる事案が発生しました。

 迂回路は、事務所らしい建物の脇にあった。道は、林の中へと延びていて、その先にはシダ園があるようだ。これは、シダマニアならたまらない。しかし、残念なことにシダに特別な興味はなかった。シダというのは、アンジュー朝のエニシダぐらいしか知らない。もっとも、エニシダはシダではない。海獺が鹿でないのと同じだ。
 シダ園は、なかなか楽しかった。園内には、木の板を渡して通路がつくられて、それが奥へと延びている。その通路の脇には、ところどころにシダが植えられ、シダの前に名を示す小さな札が立てられている。どれもシダなのだが、名前を知ることで、色や形状の違いを認識できるようになる。予習をしてくればもっと楽しめただろう。
 シダ園の終わりは、通路がリング状に回遊路になっていて、そこに道が二つ接続している。そばにあった地図によると、一つは出口へと続き、もう一つは自然観察のコースに続く。シダ園がおもしろかったので、観察コースを選ぶ。

 そのコースの入り口は急な登り階段だった。階段の途中には、クエスチョンなるポストがあった。謎解きかと期待したが、問題文は、何とか館、に置いてあるそうだ。そういことはシダ園の入り口にでも書いてほしい。

 階段を登りきり観察コースを順路に沿って歩く。しかし、何を観察すべきなのかわからない。素人目には、ただの冬枯れの原っぱがあるようにしか見えない。何マニア向けなのか難易度が高すぎる。消化不良のまま、出口への分岐に着いてしまった。

 出口への道は、テンションと同じく、下っていた。シダ園からわざわざ登ったのに残念だった。階段に差し掛かると、下に遮音壁が見えた。また横横道路だろう。車の走行音に混じって、時折、笛の音が聞こえる。検問でもしているようだ。

 階段の下からは砂利道だった。砂利道は横横道路に沿って続く。横横道路は途中から高架になって、その下のスペースが資材置き場として使われていた。さっきの笛は工事のものだったのだ。工事車両なのだろうか、ひっきりなしに車が通る。巻き上げられた砂埃にまみれながら歩いていると、さながら田舎の土手か、埋立地にでもいるようだ。
 ここに至り気づいたのだが、六国峠ハイキングコースなるものは実在しない。ただ、いくつかの公園内の道を地図の上でつなぎ合わせたものをハイキングコースと呼んでいるだけだ。もし実際に歩いた上でコースを設定したのなら、工事車両が行き交う砂利道を組み込んだセンスを疑う。

 不満の声が届いたのか、久しぶりに道標がでてきた。それにしたがい進むと、再び林のなかに入った。砂利道でささくれた心が自然の緑で癒される。はずだったのだが、やけに強く獣の臭いがしてきて、むしろ不安になってくる。そこまでの大自然は望んでないと、びくびく進んでいたが、動物園があったことを思い出した。

 林を抜けると、また横横道路にでた。横横道路には陸橋が架けられており、コースは道路を挟んだ向こうの丘へと続く。陸橋を渡ると、丘を登る長いコンクリートの階段があった。その階段に取り掛かる。途中、踊り場で振り返ると、なかなかの絶景が広がっていた。階段からの眺めは、手前が高速のせいもあるのだろう、能見堂よりもずっと見晴らしがいい。また、能見堂よりも高いのか遠くまで見渡せる。視界に占める海の割合が高く、ガントリークレーンや大型船など、いかにも海の景色らしいものも見える。

 階段の終わりから、また山道になる。ここからの山道は、ハイキングコースのなかで一番楽しかった。道は、全体に適度な緩い登りになっていて、一部が少し崩れていたり、木の根などの軽い障害物があったりする。そこを、足場を選ぶのに集中にしながら夢中になって登る。自分のリズムで軽快に登れ、実に愉快だった。ランナーズハイかもしれない。

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