人権派弁護士のアイロニー
とても美味しいお酒を見つけました。福島は奥の松酒造さんの純米大吟醸紺ラベルです。とてもきれいな香りですいすい飲めてしまいますし、こんなに安くていいのかと思うぐらいお手頃。酒を減らすといったのは最近のことですが、美味しいものには逆らえません。
このお酒にはひょんなきっかけで出会いました。昔読んだ記事に、あるジャーナリストの方が福島の日本酒について書かれていたのです。それまで福島に日本酒のイメージはなく、少し意外に思いながらもその方の記事をいくつか読んでみました。そして驚きました。福島は震災から立ち直ろうと私の想像をはるかにうわまわる取り組みをしていたことに。そして、それ以上に、福島の方々のそうした努力を踏みにじる人々がいることに。
弁護士にもそのような人々がいました。それも、福島を「フクシマ」と呼び、虚偽の風説を流布するのは、多くは「人権派」と呼ばれる弁護士でした。安倍元首相を「アベ」呼ばわり(私は彼を積極的に支持はしませんが、少なくとも彼は反対派の人形を焼いたり潰したりはしなかったでしょう)し、嬉々として様々な蔑称や罵詈雑言を投げつけ、時に病まであげつらって罵倒するのも、人権派の弁護士でした。自由や人権を掲げながら、党派性を隠そうともせず他者を踏みにじることをなぜ自分に許せるのか。弱者を守るといいながら、どうして同じ人間に優しさのかけらもない態度を示せるのか。私はそれを疑問に思いました。
しばらく考えた結果、彼らは権力など敵とみなしたものを人間と見なしていないという結論に至りました。これはちょうど読んでいたローティの影響でもあります。人権を蹂躙しようとする権力たる「やつら」と、人権を擁護する正義の「われわれ」という区別がなされ、これらは本質的に異なるという考えに至ってしまうと、相手もまた人間であるということさえ忘れてしまいかねなません。ローティはこうしたことを警告しています。
「人でないものに人権はない」と「あいつらは人ではない」という認識が悪魔合体してしまうと、自分を人権派と自認しながら人を人とも思わぬような言動がなんの矛盾もなくできてしまうのです。たしかに人権という概念は元来国家権力に縛りをかけるものです。弁護士は時に権力と戦わなければいけない仕事です。その意味では、弁護士はその性質として反権力を担う側面があります。しかし、権力の座にあろうと、敵であろうと、私たちは同じ社会の一員だということを忘れてはいけません。
弁護士には人権を守るのはもちろんとして、他者に対して優しいものでありたいという願いを持っていてほしいと願っています。人権派が自分の仲間以外には苛烈に当たるのを当然とするなら、非人権派と言われてもまったく構いません。私は、依頼者は当然のこととして、相手方を含む社会全体にも目を配れる弁護士でありたいと思っています。
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