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「詩と暮らす」2#シロクマ文芸部

「詩と暮らす」
と言う題材で私が先ず思い出したのが、彫刻家で詩人の高村光太郎だった。
彼が書いた「智恵子抄」はあまりにも有名であり、不確かな記憶だが中学校か高校の国語の教科書にも載っていたと思う。

高村光太郎氏は偉大な彫刻家 高村光雲の長男として生を受ける。しかし彼の生涯は順風満帆なものではなく芸術への苦悩と貧困との闘いではなかったかと私は思う。
そんな彼を精神的苦痛から救ってくれたのが妻 智恵子だった。
光太郎は智恵子への想いを作品として数多く世に送り出している。それは彫刻であったり詩であったりするのだが、こんなに愛した女が病魔に侵されてしまう。
人生とは時に残酷なものである。
一番大切な人が「人間商売をさらりとやめて」しまったのだ。
「狂った智恵子は口をきかない」
当時でいう「精神分裂病」の発症をこのような形で光太郎は描いている。しかし彼はそんな智恵子を愛し続ける。
常人が考える「結婚生活」や「愛情の疎通」が叶わなくなっても彼は智恵子をひたすらに愛し続ける。
主人を遷延性意識障害の闘病の末、亡くした私には少しだけ彼の気持ちを理解することが出来るかもしれない。もちろん私は光太郎のような非凡な芸術家ではないから、主人の存在価値を世に遺して逝くことは出来ない。
私が理解出来るのは愛している人の「形」の温もりだけだ。
其処に今までのような返事は返って来なくても、意思の疎通が叶わなくても、愛していた頃の「身体」が残り、触れれば血の通う温かさがある。だから、愛し続けられたのだと思う。いや、今現在も愛のかたちは変わってしまったが、私は主人を愛している。
非凡な芸術家の光太郎もそこは同じ人間であり、変わらなかったのではないかと推測する。

智恵子を亡くした光太郎の晩年は、本当に「詩と暮らす」人だったのでは、ないだろうか。
もちろん彼の本筋は彫刻家であり最期の作品「乙女の像」は智恵子をモデルにしたものだ。
でも光太郎の一人の生活を支えたものは智恵子への想いを綴った「詩」であったと私は思っている。
智恵子が作った10数年前の梅酒を飲み「詩」に謳う。智恵子が好きな風景を一人で見ながら亡き智恵子に問いかける。
             ※「梅酒」「案内」より
そして彼はアトリエで智恵子と同じ病(肺結核)で亡くなる。
詩と共に暮らした芸術家 高村光太郎氏への賛美と畏敬の念を込めて智恵子の最期の時を謳った「詩」で締めたいと思う。


「レモン哀歌」

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしくしろく明るい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパーズいろの香気が立つ
その数滴の天のものたるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう



「智恵子抄」は文庫本で持ち歩くほど好きだった。
何故、あんなに好きだったのか今も分からない。


「智恵子の裸形をこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中に帰らう」
        ※「裸形」より
おそらく智恵子をモデルにした高村光太郎最後の作品「乙女の像」の制作中に書いた詩でないかと思う。彼は詩で智恵子に語りかけ詩で智恵子と暮らしていたのではないだろうか。
「詩と暮らす」と言う題材のおかげで、私はもう一度好きだった「詩集」との再会を果たせた。
「今日も私は幸せだよ」と詩と暮らす詩人の才能を持ち合わせ天へ贈れれば
いいのだけれど…







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