算命学余話 #G58 「体と用の思想」/バックナンバー
「四苦八苦」という四字熟語は仏教が語源で、「人間の苦労の種類」を数え上げたら八種類になるという意味だそうです。内訳はこうです。まず生老病死が前半の「四苦」に当たり、これは他者を介在しない本人だけの苦しみで、誰しも等しく経験するもの、避けて通れないものです。残りの四つは、「求めても得られない苦しみ」「愛する者と死別する苦しみ」「嫌な奴と会わねばならない苦しみ」「人間を構成している要素に由来する種々の苦しみ」で、最初の四苦に比べると複雑で、他者や環境との関係性が前提となる苦しみです。
いずれの苦も、仏陀自身が修行の中で気付いたとされています。しかし「嫌な奴と会わねばならない苦しみ」には、笑わせてもらいました。仏陀もそう思っていたとは。仏陀の生きた2500年前の人間の悩みは、現代人とまるかぶりだったようです。この「嫌な奴」の存在しない社会をどうにかして築けないものかと思うのですが、どうやらそれは無理な望みのようです。仏陀が気付いたくらいですから、望みはないのでしょう。その代わり、仏陀は仏教という対処法を提示してくれました。
仏教では、こうした後半の四苦が引き起こされる原因は、人間の識別作用にあると考えています。従って、この識別作用を滅却できれば苦しみはなくなるというわけです。仕組みはこうです。
「一番目の矢」が飛んできて、腕に突き立ったとします。もちろん痛いです。その痛みは感覚ですが、人間の識別作用は、ここから次の感情である「怖い」や「恨めしい」「嫌だ」「不快だ」を玉突き状に次々と生じていく。つまり識別作用がひと度生じると、連鎖的に次々と別の心の動きが生じて止まらなくなる。この心の拡張機能を「「戯論(けろん)」と呼び、この戯論が苦しみの元だというのです。
飛んで来たのは矢であって、それが腕に刺さったから痛かった。事実はこれだけです。しかしそこから連鎖的に生じた感情である「怖い」や「恨めしい」は、事実ではない。その人の心の中で生じた動き、或いはまやかしに過ぎず、ただの「痛い」で止めておけば生じなかった感情です。仏教では、この最初の「痛い」という感覚に「気付く」ことに努めれば、そこから戯論によって無制限に派生していく感情を抑止できると考えているのです。
つまり「痛み」にまず気付き、そこから怒りや恐怖、不快感を生じさせる前に、その痛みを手放してしまうことで、平常心を保ち、余計な感情に振り回されることがなくなる、というわけです。痛みを手放す。これがまず難しいと、素人は思います。まずは「我慢する」ということでしょうか。要するに、痛みに囚われないということなのでしょうが、やっぱり難しそうです。だから仏教を極めるには修行が必要なのでしょう。
仏教がすごいのは、手放すべきは「痛み」という苦痛に限らず、喜びや楽しみといった肯定的な感情であっても、これを野放しにしてはそこから執着が生まれるから、適度に抑制すべしと言っているところです。その「適度」なラインが「中道」というわけです。私の印象では、歴史的に仏教を受け入れてきた東アジアの国々の感覚では、欧米人がよく使う「絶対に許さない」といったフレーズは出て来ない気がします。それは、仏教が戯論を戒め、負の感情を放置・拡張させることを明確に否定しているからではないかと、この話を聞いて思いました。
仏教が専門ではない人間が説法を垂れるとボロが出ますので、これくらいにしておきます。東洋思想である算命学は、同じく東洋思想である仏教とは親和性があります。(間違っても、一神教とはひとつもかぶりません。)中道・中庸の思想は算命学にもあり、あるどころか中核といってもいい基礎思想です。
今回の余話は、算命学的中庸思想である「体(たい)」と「用(よう)」に焦点を当ててみます。体用論は算命学では聞き慣れないかもしれませんが、上級技法である気図法及び八門法を学ぶと出てくる概念です。難しくはありませんが、鑑定を深めるには知っておいた方が良い思考の話です。とはいえ、上述の仏教の話がよく呑み込めた人なら、改めて学ばなくても既に頭の中に思考回路ができ上っているかもしれません。そんな内容になります。
最近、電車という密室内での無差別刺傷事件が続いています。こういう事件が起こると、「犯人の宿命には何か共通した印が見当たるのではないか」といった質問がしばしば寄せられ明日。しかし算命学者としては、「そんなことはない」と言うしかありません。なぜなら、犯人と同じ生年月日の人はこの世に山ほどいて、その人たちが軒並み電車で刃物を振るったり、油を撒いて火を着けたりといった行為に及ぶはずはないからです。算命学者でなくとも、常識的に考えれば判ることです。
毎度くどくて申し訳ありませんが、犯人が事件を起こしたのは、宿命のせいではありません。宿命には恐らく、発端となる何らかの小さなタネくらいは見つかるでしょうが(そんなタネはどの宿命にだって見つかりますよ)、そのタネが芽吹いて枝葉を広げ、世を騒がせる殺傷事件にまで成長するには、いくつもの関門をくぐらなくてはなりません。その関門とはその人の人生経験であり、宿命とは離して考えるべきなのです。
仮に宿命にタネがあっても芽吹かないのは、多くの人が「芽吹かなくて済む」人生を歩んでいるからです。そしてそこに寄与しているのは道徳観や分別であり、上述のような「忍耐」であるのです。ほとんどの人は、負の感情を野放しにはしていないのです。しかし犯人たちは、「戯論」に振り回されるがままに生き、そういった人生経験ばかりを積み上げてきた。分別や忍耐によってブレーキを掛ける訓練をして来なかった。違いはここなのです。
では、こうした「違い」は算命学では全く論じられていないのかといえば、そんなことはありません。つまり「生き方」について、どうすれば「不幸のタネ」を芽吹かせずに生きていけるかを、体用論から考えてみます。
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