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算命学余話 #R62「価値観と五徳」/バックナンバー

 ひと昔前の日本の子供たちの学業レベルは、理系をはじめ世界のトップクラスでしたが、昨今は「ゆとり教育」の弊害かどうかはともかく、上位ではあれどトップではなくなりました。代わりに上位にランクインしたのは東アジア諸国です。これらの国々は、日本が高度成長していた頃はまだ食べるのがやっとな状況だったので、教育に時間やお金を掛けられなかったのもやむなしでした。
 しかし経済発展により教育に余裕の出てきた今となっては、こうした国々も日本とほぼ同等の条件で競争できるようになったのだから、日本を凌駕するランクになっても不思議はありません。日本の子供も特にアホになったわけではないし、もっと厳密に比べるのなら、途上国にはまだ教育を受けられない寒村や人種的マイノリティの子供たちが大勢いて、彼らはそもそも学校に通っていないという事実があります。彼らはこうした国際ランキングを成立させているテストを受けておらず、データとしてカウントされていない。カウントされているのは比較的裕福な家庭の子供たちだけであり、そうした家庭では子供の教育に熱心なのが普通です。
 一方日本は、いくら「貧困家庭」が増えたからといっても義務教育を受けられない子供はいません。もし子供を学校へやらない親がいたら、通報される国なのです。そのため教育熱心でない家庭の子供であっても学校へは行くし、テストも受ける。それが反映されてのトップ陥落なのだから、国際ランキングなど当てにはなりません。そのように考えてデータを冷ややかに眺めるのが、大人の正しい態度だと思います。

 ところでこの種の子供のお利口ランキングの最近のトップを飾る国の中に、フィンランドが入っています。データを冷ややかに眺められず、日本の子供の学業低下を真に受けた大の大人が、わざわざフィンランドに赴いてその教育の実体を調べたところによると、フィンランドは十数年前に国家政策として、教育の目的を「納税者を増やすため」と定義し、その方針に基づいた教育改革をしたとのことです。その結果、国際ランキングのトップに躍り出たと。
 この話を聞いて私は思わず噴き出したのですが、調査メンバーは大真面目にこれを称賛し、日本の教育もそうするべきだといった風でした。つまりこのフィンランドの政策を、私はボケと捉えてツッコミの冷笑で反応し、調査メンバーはボケとは取らず同調したわけです。
 さて、読者の皆さんはボケと捉えたでしょうか、それとも同調したでしょうか。ボケと捉えた人は、「教育」という概念の中に「教養」も含まれている人なのでしょう。そしてその教養を、人生を豊かにするために大切なものだとお考えのことでしょう。同調した人は…当ブログをこれ以上読んでも意味がないのでは?

 世間の思い込みが自分の思い込みと違うという例として、平野啓一郎氏の小説『決壊』から少し引用してみます。このくだりは、猟奇殺人犯の反社会的演説という形をとっているため極論として描かれてはいますが、厳しい真実を突いています。

――「幸せになる! これは最早、人間が、決して疑ってみることをしなくなった、唯一至上の恐るべき目的だ! <幸福>こそは、現代のあらゆる人間が信仰する絶対神だ! あらゆる価値が、そのための手段へと貶められ、このたった一つの目的への寄与を迫られている! 人間は<幸福>という主人に首輪を嵌められた奴隷だ! 一切の労働、一切の消費、一切の人間関係が、ただこの排他的で、グロテスクなほど貪欲な飼い主の監視の目の下で、鞭打たれながら行われている! いいか! <幸福>とは、絶対に断つことのできない麻薬だ! それに比べれば、快楽などは、せいぜいその門番程度の意味しかない! 違うか? 人間は快楽を否定することはできる! しかし<幸福>を否定することは絶対に許されない! どんな人間でも、絶対に<幸福>を目指さなければならない! どんな形であれ、それは全面的に肯定され、称揚されなければならないのだ! <幸福>のためならば人間は、どんな犠牲でも払うべきだ! <幸福>を愛する心! それはファナティックで、エロティックで、熱烈極まりない、現代の最も洗練され、先鋭化したファシズムだ!」――

 算命学は陰陽五行で世界を見ているので、陰陽のどちらかとか、五行のうち一つだけとかに世界が偏ることを嫌いますし、そんな世界はあり得ないという立場です。偏りが限界に達した途端、世界は顛倒し、中身はシャッフルされ、事態が沈静化した頃には、結局陰陽のバランス、五行のバランスは均一に戻ることになる。だから過度の偏りは、痛い目を見るだけ損になる。そういう考えです。
 冒頭の教育の話では、フィンランドが国策で教育(知性)の目的を、納税という財政保全(財)に集約したことで、人間の知性を金儲けの手段へと引きずり下ろしました。知性と財の関係は、土剋水が故に、カネによって知性(判断力や品格を含む)が曲げられる可能性が高いとはいえ、これを国家が承認推奨するというあからさまさに、算命学は危惧を抱きます。なぜなら国家政策により金銭欲が「善」として国民生活に浸透するからです。これでは国は禄(土性)に偏重し、いずれ顛倒することになります。顛倒がどういう形をとるかはともかく、顛倒によって知性は、将来的にはその虐げられた地位から脱することになりますが、当面は苦戦を強いられます。

 『決壊』の引用部分は、私も思わず膝を打った盲点でした。<幸福>もまた、五行のうちの一つに過ぎないというのに、失念するほど常識化していたのです。『決壊』の別の部分では、「不幸な境遇に生まれついた者に対して、ガンバッて幸福な人生を切り拓け」と当然のように鼓舞する世間の無責任な説教を揶揄するくだりもあります。
 「幸福を否定するなんて、余程心が歪んでいる人ではないか」と考える人は多いかもしれませんが、五行説の観点から言えば、そう考える人は五人に一人であり、残りの四人は実は否定的立場であるか、まあ賛同してもいいよといった日和見の立場であるかです。

 今回の余話は、こうした五行説から見た人間の価値観について考察してみます。算命学の基礎思想なので新しいものではありませんし、鑑定技法にも関わりませんが、世界や宇宙を干支で表現する算命学が、宿命の異なるあの人この人の、異なる価値基準をどう紐解くか、それが把握できれば人間関係もスムーズになろうというヒントの話です。
 ところで前回の余話#R61は、亡くなったホーキング博士の宿命解説でしたが、算命学を全く知らない友人が興味本位で購読し、さすがに専門用語は判らなかったが大意はつかめたし、面白かったと好評してくれました。「鑑定技法に関わらない」と銘打った回でもそれなりに読者を確保していますし、もしかしたら既に算命学の思想を実生活に取り入れて、より生きやすい、豊かな人生へと方針転換している人も増えているのかもしれません。

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