算命学余話 #G46 「未来を歪める」/バックナンバー
前回の余話では「従生格」を紹介し、完全格の星の偏り具合について眺めてみました。「変化した後でも該当する」という点は見過ごされがちなので、鑑定実践においては注意が必要です。こうした完全格はいくつかありますが、いずれも著しい星の偏りが特徴で、あまりに偏っているが為に通常の守護神を取らないのです。
ところで、通常の守護神がそもそも何なのかは、当然押さえておかなければなりません。守護神については既にシリーズで少しずつ解説しておりますが、どの回を読んでも判る通り、守護神法とはその季節に応じた五行のバランスを取るのが目的の技法です。例えば樹木に生まれたなら陽光は有難いけれど、あまりの日射で乾燥して枯れないよう水分も必要である、といった具合に、自然現象に即したバランスを如何にとるかが焦点です。
しかしこうしたバランス重視の守護神を取らない完全格というのは、その存在そのものがバランスを必要としていないことが判ります。つまり、完全格とは文字通り「完全」なのであり、お天道様が照ろうが台風が来ようが、お構いなしに自己完結しているというわけです。それはあたかも、自然現象に反した存在であるかのようですが、実際には自然に反しているのではなく、「例外」として存在しているのです。
勿論、例外というのは数が極めて少ないからこそ存在できるのです。例外の数が多ければ、それは自然の法則を破るために、淘汰の対象となります。事実、従生格一つを取っても、その生き方が凡庸であれば夭折の危険があることからも伺い知れます。例外として生まれたからには、例外として生きなければならない。そういうことなのです。
完全格に該当する宿命が滅多に巡って来ないということは、宿命の大多数は例外的な宿命でないということです。宿命ごとに星の偏りやカラーはあっても、特別抜きん出てどうこう言うほどではない。つまりいずれの人間も、総じて「普通の人」の生まれであるわけです。
運勢鑑定を依頼して来る人の中には、自分なり近親者なりが特別な人間であるかのように錯覚している人がたまにいますが、算命学者が眺めるその宿命といったら、呆れるほど普通です。要するに、本人だけが騒いでいるに過ぎない、妄想に囚われているに過ぎない、ということです。そして、ここが肝心ですが、こういう人は賢くない。当然です。妄想に浸って騒いでいるような人が、理性や客観性を備えた思慮深い人間であるはずはないのです。
すると鑑定者はどうするかというと、この人の持って生まれた宿命に加えて、その「実際の生き方」の欄に「賢くない。思慮に欠ける」という文句を書き込むわけです。そしてこの文句と宿命の間にある相関関係を探ります。逆に、非常に理性的で冷静な自己分析をしている依頼人の場合には、同じ欄に「自分を客観視できている」と書き込み、この評価と宿命を見比べて、整合性を高めていきます。この場合の整合性とは、その人の実際の生き方によって、宿命のどの部分が輝きを増し、或いは輝きを失っているかを見定めることです。
冒頭の守護神に触れるのなら、こうした「輝きを増す」作用をもたらすのが守護神です。そして、完全格でないのなら、宿命にとって守護神とは、自然との調和をもたらしてくれるものであるはずです。従って、もし宿命(及び本人の人生)が輝いていないのなら、当然守護神は作用していないと解釈できますし、或いは宿命によっては守護神が全く不在であるケースもありますが、いずれにせよ、その人は自然との調和の取れない生き方をしている、という結論になります。現象としては、不幸に見舞われるということです。
そして、ここも肝心なのですが、この種の不幸に見舞われている人に限って、自分の不幸に気付いていない。いえ、もっと正確に言うのなら、この種の不幸を呼び寄せた原因が自分自身のまずい生き方にあることに、気付いていない。だから堂々巡りをするのです。「私の不幸は誰かのせいであるか、持って生まれた宿命のせいなのだ」と原因を余所に求め、自分自身を疑うことをしない。考え違いも甚だしいです。こういう時、鑑定者は、「あなたの不幸はあなたが好き好んで招き寄せたものですよ」冷ややかに断定しています。宿命をいくら探したところで、都合のいい悪者など見つかりはしません。原因は本人なのですから。
今回の余話は、この種の依頼人の堂々巡りの主張に対し、鑑定者志望の皆さんが身に付けておくべき心構えについて論じます。
私がその意見を拝聴している作家の平野啓一郎の小説『マチネの終わりに』を読んだか、或いは映画を観た方には想像しやすいかと思いますが、あの作品には恋人たちの仲を引き裂く悪玉女が出てきます。そしてその女は、「自分の不幸」に気付いていません。一見すると、引き裂かれた男女の方が不幸に見えますし、実際不幸になったのですが、一番不幸なのは、何と言ってもこの脇役の悪玉女です。算命学的にはそういう判断になる。
物語はフィクションですが、鑑定の実践では類似の話にしばしば遭遇しますので、本当の意味での不幸とはどういうものか、算命学の理論を使って論じてみます。
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