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算命学おとぎ話『九微の火』


最近嬉しいことにインスタグラムでもオンラインサロンでも、多くの方のお役にたて、嬉しいお言葉を頂くことが増え、わたしも改めて自分の人生の意味と
自らの使命・役割を全うすることの尊さを感じさせて頂いている日々です


正直人生は苦難が多いです

特に算命学のような宇宙の真理を探究したいと思い至るような人は
何かと人生が荒れやすい傾向があるので(笑)

(ゆえに人生を解明したがるわけです)


紆余曲折あったわたしにとっては本当に天分の天職だなと思うことが沢山あります
(そして今後も色んな学びが待っていることでしょう)


真理とは?
真理ゆえに万物に応用する事ができ


ある時は国家の国運を左右するような政治の場で
ある時は社会システムを作るための都市国家戦略として


そしてまたある時はこの自然界の営みを知り農耕に用いられ、
それがわたしたちの文化・芸術となりました


そしてまたある時はわたしたちが希望を胸に
明日に生命(いのち)を繋ぐための「運命學」という道具として


4000年の太古より悠久の歳月を掛けて
先人たちから今日まで継承されてきたものです


わたし自身、多くの困難に直面し思い悩んできた一人です


自分は何のために生まれて来たんだろう?
なぜこんな苦しみが多いのだろう??と感じてきたうちの一人です


多くの場合で”平均値”から逸脱したレア体験に恵まれたため
人生をより深く、より真摯に考え続けることが出来ました


沢山の辛酸があれど、深く人生を考える立場にいる
とても幸運な人生だと今は感謝しています


今日はそんな誰しもに訪れる「人生の暗闇」について
算命学に太古より伝わるお伽話(おとぎばなし)のご紹介です


本当の人生は〈真の暗闇〉を経験したのちに訪れます


真の人生に出逢いたければ、まずは真の暗闇に出逢う必要がある

『算命学小話-九微の火』


そんな人生の暗闇に一粒の〈九微の火〉が灯る時
誰しも本当の豊かさを手にすることとなるのです

この算命学お伽話が皆さんの明日を輝かせる、希望の灯りとなりますように



算命学おとぎ話『九微の火』
人生を豊かにする算命学の小話



古い中国のお話です。あるところに腕の良い狩人がいました。

一粒種の息子がおりましたが、十年程前に流行りの病で亡くし、それ以来、病気がちの身になってしまった妻との、淋しい二人暮らしでした。まもなく、雪の季節になるというのに、荒れた天候が災いして、不猟の日がしばらく続いていました。


 そんなある日、獲物を追いながら、つい深い山奥に迷い込んでしまいます。日も落ちて、あたりに夕闇が立ち込める頃、小さな崖の上に一夜の宿になりそうな洞穴を見つけました。日頃、獣たちを追う立場の狩人ながら迷い込んだ山中で、しかも夜は逆に狙われる立場で危険です。


夜露さえしのげればよいと思っていたのですが、洞穴は湿気もなく何より先住しているかもしれない獣の痕跡もなく居心地の良いものでした。夜の寒気は厳しく枯れ木を集めて暖をとるうちに日中の疲れから眠り込んでしまいます。
 
 

夜半、焚き火の燃え崩れる気配に狩人は目を醒しました。
洞穴の外は漆黒の闇です。


わずかに燃え残る焚火に照らされる洞窟の内部を改めて見渡すと、隅の方にさらに奥に続く横穴が黒い口を開けているようです。狩人は勇気を奮って奥へ進んでみる気になります。


燃えさしの枯れ木を松明がわりに、腰を少しかがめれば通れるその横穴を奥へと向かいます。曲折はあるものの横穴は意外となほどに単調に続いています。しかし、かなり奥深いようです。進むにつれて消えかかる枯木の明かりが次第に不安をつのらせ狩人は歩みを止めてしまいます。


同時に手に持つ灯も消え、真っ暗闇に包まれてしまいました。音もなく粘りつくような真の闇です。辛うじてわかることは、自分が今身をかがめながらも立っていることろは、体が奥の方を向いていることです。このまま逆戻りをるれば手探りでも出口に辿り着くことはできるはずだと狩人は考えます。


 前は真っ暗です。身をよじって顔だけでうしろを振り返ります。後ろも真っ暗です。気を鎮めようと彼は闇の中で目を閉じます。(仕方がない引き返すか・・・)狩人は、前方を一睨みしてから体の向きを出口の方へ変えようとして(おや・・・)と気がつきました。奥の方が妙に明るいのです。何かが見えるわけではありません。ただ出口の方と比べてわずかながら明るいのです。何ものかに導かれるように、彼は両腕を前方に差し出す格好で、そろそろと奥へ進みます。


 光の本体は見えませんが確かに明るさが増してきます。やがてぼんやりと洞穴の輪郭らしいものが見えはじめ、更に進んで自分の手足が見えるほどに明るくなった時、突然今まで彼を圧迫していた両側の壁と天井がふっと消えます。広い洞房に出たのです。そこはほんのりとした柔らかい明かりで満たされた地中の小部屋でした。



 狩人の全身は大きな安堵感に包まれます。同房の中程に静かに腰をおろすと、彼はその安堵感に浸ります。それは、頭の芯から手先の先まで浸透してくる、大きな安らぎでありました。


先程までの不安や日中の失態に対する無念さなど、跡形もなく消え失せていきます。そればかりか、彼自身がこれまでの人生に背負い込んできた、怨念や心の傷さえもきれいに洗い清めてくれるのでした。この大きな安らぎを自分に与えてくれるものが、洞穴に満たされている幽かな(かす)明かりであることも、彼にはわかりました。そしてこの空間が、自分という存在をすべて無条件で受け入れてくれる大いなる寛容の世界であることも同時に知るのでした。


狩人は、その柔らかでほのかに温かいものを全身で吸収します。


ひと時の後、彼は立ち上がり、何かを探すかのように広間を見渡します。それは洞窟の至るところにありました。上下四方の岩ひだから、にじみ出るようにして淡く微かに揺らめきながら点(とも)っていました。

「九微の火」(きゅうびのひ)です。



 まばゆく輝くこともない熱い炎を燃やすこともない九微の火は、その微かな揺らめきがなければ、光源として確認することができないほどのものです。


しかし「九光九微の火」とも言われるように、発する光色は折に触れ、多彩に変化し、またひとたびこれを目にする時、人はその人生の如何に拘らず、自己の真の姿と生きる自信を取り戻すという神秘の火でもあるのです。
 

狩人は足元の小さな宝石のような九微の火をひと粒だけ指先ですくい取ると、受け皿がわりの岩のかけらに移します。そして出口への道である狭くて暗い横穴に戻ります。

先程とはまったくうって変わったように帰路は心軽やかでした。米粒ほどもない九微の火も、まるで狩人の心を知っているかのようでした。


洞穴の岩石の起状をはっきりと照らし出し、岩肌の変化を美しく照らしてくれます。ここでも彼は知るのです。九微の火は百粒揃えても明るさは一粒と同じ、一粒でも百粒と同じであることを。
 


夜はすでに明けはじめており、洞穴の外には小鳥たちのさえずりが聞こえてきます。洞穴内の昨日の仮寝の後片付けをは早く済ませると、狩人は勇躍、妻の待つ里に向かうのでした。朝日の昇る方角が彼の里だからです。

もちろん彼の背負う袋の中には、九微の火がついているはずの岩片が大切に収められていました。
 

一日がかりでしたが、狩人は無事に我が家に帰り着きます。喜び迎える妻に、早速昨日の不思議な体験を話して聞かせました。

しかし妻は、獲物もなく小さな岩のかけらを一つ持ち帰っただけの夫の話には納得ができません。事実、目の前に置かれた岩片には「明かり」など全然見えないからです。

不満げな妻をなだめつつ、狩人は間もなく訪れる夜を待つことにします。
 

夜の帳が里を包み、点在する家々に灯りのつく頃、狩人は妻と向き合って座っていました。二人の間には例の岩片が置かれています。彼には、確かに九微の火が見えています。しかし、妻はまったく闇の中にいるように、視点も定まらず、表情も不安げです。

狩人は腕を伸ばすと妻の手を握りしめました。(気を鎮めろ、勇気を出して前をみろ)彼の無言の励ましが妻に伝わったのかのように、彼女は静かに目を閉じます。そして再び目を開けた時、これまでの沈鬱な表情は消えていました。彼女にも見えたのです。淡い若草色の揺らめきでした。
 


その夜、九微の火は明け方近くまで点っていました。
九光九微の火と呼ばれるだけに、その光色の多彩さは言うまでもなく、そこに醸し出される世界は、複雑な人の心に対応するだけの数が用意されており、むさぼりや怒りの心を抑え、迷いを解き、理知の心を与えてくれるのです。

その淡くはかなげな光とは裏腹に、人の心に対して、強く浸透する作用を秘めています。その効力は大きく、たとえ万策尽きて絶望の淵に追い込まれたものであっても、たちまちのうちに生きる希望を体内に漲(みなぎ)らせるでしょう。


困難に立ち向かう勇気と努力する心を得さえすれば、星明かりのような微かな望みでも、それが十年、二十年がかりの遠い道のりであっても、人は生きていけるはずです。

また、九微の火はその者が持っているどんな些細な能力をも見逃さずに、それを最大限に発揮させてくれます。本人が気づかずにいる能力でさえもです。 

山奥に迷い込んだ狩人が、偶然に見つけた九微の火でしたが、それ以来、狩人夫婦に大きな変化が訪れることになります。

冬が去り、庭先のの桃の木が薄紅色の花を咲かせる頃、
狩人は妻が身ごもったことを知ります。

そして狩人自身にも、異変が起こっていました。狩に出て獲物に向けて弓を引き絞ると、矢を射る前に狙った獲物の方が、先に倒れてしまうのです。どの獲物もみごとに急所を射抜かれたように、眠るが如く息絶えています。
 


それは神業でした。やはり狩人であった父に、幼い頃から技だけではなく、狩人として守らなければならない狩猟の掟を教え込まれて育った彼が、ついに体得した狩人の奥義です。

彼は、群れの長を倒すな、子連れの親を射るな、無益の殺生はするな、など猟を生業として生きるものの道を固く守り通してきた男でした。たとえ、一日歩き回って山鳥一羽の獲物しかなくとも自然の恵みに感謝し、何日も獲物のない日が続いても決して天を恨むことなどない男でした。その彼が極めたものが、鳥獣の血を流さずに捕らえるという狩猟の奥義だったのです。
 

大自然の活気が頂点に達する季節である夏を迎えるころ、
もう一つの奇跡が起こります。今度は妻の方に生じた新しい能力です。


庭先の数本の腿の木がどれも、枝もたわわに見事な果実をつけているのです。
その大きさ、形の良さもさることながら、色の美しさは、かつて誰も見たことがないほどの桃です。


ひとつもぎ取ってみれば、うっすらと細毛で被われた、柔らかな手触りと、意外にずっしりとした手ごたえは、すでに食す前から中に蓄えられる蜜の豊富さが感じられ


その気品ある香りもまた、天界にあるという「蟠桃園」(ばんとうえん)の桃もかくやと、思わせるほどです。そして気がつけば、彼女が手を触れて慈しむすべての草木が、みな生き生きと成長していたのです。

狩人の妻が得た力とは、手を触れるだけで草木のもつ特性を極限まで高める能力だったのです。

彼女はもぎたての桃を先祖の墓に供え、喜びを報告し、神に供えて、このような力を与えてくれた天に感謝するのでした。 

桃の木は仙木であり、邪気を払うとされており、その果実は食すれば長寿の効ありとも言われているものです。彼女が早速にとれた桃を里の人々に分けてあげたことは言うまでもありません。
 

やがて秋が訪れ、狩人の妻は玉のような男児を生みます。その産声は里中に聞こえるほどの大きな声だったと言います。狩人一家にまた新しい希望の火が点ったのです。
 


幾日が過ぎて、ようやく夫婦がくつろぎの時間を持ったある晩、狩人は手箱を取り出します。その中に納めてある九微の火に、久しぶりに接してみようと思ったからです。


しかし、手箱の中には九微の火も岩片もありませんでした。ただ、手箱の底にわずかな砂が残っているだけでした。

(燃え尽きてしまったのだろうか・・・)

夫婦は顔を見合わせます。そして二人は気づくのです。夫は妻の顔から、妻は夫の顔から。お互いの表情には、もはや如何なる困難にも屈せず、動じない強い安心感がありました。

海のように深い優しさと、山のように大きな包容力がありました。夫の眼の中にに、妻の眼の中に、生き生きとした九微の火がすでに宿っていたのです。



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 算命学おとぎ話「九微の火」は人が生きるために欠かすことのできないものが未来に対する希望であると言うことを言わんとしています。


人生一度や二度の絶体絶命の危機は誰にでも訪れます。それを乗り切るのは自分自身でしかないのです。

自分の中にあるわずかな力を探し出して、たとえ芥子粒(けしつぶ)ほどの明かりでも希望を点せるならば、苦境からの脱出は可能です。


またその間の努力は自分自身が気づかずにいた能力をも引き出すはずです。



「九微の火」は現代にもまだ残っているはずです。もし本気で探そうとするのであれば是非にお試しください。まず、真の闇を体験することです


自分の心臓の音しか聞こえない真っ暗闇の中で無心になれるのであれば、あえて遠い山奥まで出かける必要はありません。身のまわりに「九微の火」は見つかるでしょう。


「九微」とは古い中国の言葉ですので、辞書を引いても見つからないようです。漢和辞典などには[奥深いところの意][灯火の名]といった解釈があり、道家の経文や唐代の詩文には少ないながらこれを見ることもあります。


算命学との出会いが、みなさんの人生の「九微の火」となりますように



双蘭

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