結局少年愛者って体は大人、心は子供な人達なんじゃないかって話

今回はこれまでにも増して主観的な記事だ。的外れもいいところかもしれないし、多くの少年愛者にとって不愉快な内容かもしれない。だが、偽らざる本音として私含め少年愛者の「幼さ」は気にかかっていた。その疑問を無理くり昇華させてみた結果である。悪しからずご容赦願いたい。

もう何年前になろうか、まだ学生時代の話だ。
ダラダラした雰囲気の中、脈絡は覚えていないが女子の一人が「何で男子っておっぱいが好きなの?」と問うた。とある男子が答えて曰く「俺らに無いからじゃね?」と。
そこからどのような話題に移っていったかは覚えていない。どうでもいい駄弁りから離れた心中、私は彼の一言を反芻していた。

ストレートはつまり、自らの体に無いものを欲するのか。目から鱗とはこのこと、着眼点が自分と彼らとではかけ離れているものだと実感した。
単純な話だ。胸と股間のそれぞれの隙間を、男女は埋め合わせるかの如く求め合う。それがマジョリティーの欲なのだ。

では、少年愛は?
より自らに近しい筈の、既に所持しているものを求める理由は?
友人の発言を少年愛にも当て嵌めるのなら、埋め合わせたい何かがある筈だ。

(若干の疑いは拭いきれないが)インターネット上で意思表明している少年愛者の多くは、「少年と仲良くしたい」「性的接触もスキンシップの延長として行いたい」と考えている様だ。根っから少年を性的に支配したい、自らだけ気持ちよくなれば相手の少年などどうでもいい、という者は少数派だ。ストレートよりその割合は低いのではないか?
子供に手を出さないという、大人として最低限のモラルを失わない程にまで成長しているから、と捉えられるかもしれないが何処か違和感を覚える。実年齢に見合わぬ幼さ、無邪気さが嗅ぎ取れる。

そして少年同士の交流に混ざりたがる少年愛者も数知れない。まるで自分が大人である事実が抜け落ちているかのようだ。私自身にもその傾向があることを否めないが、客観視すれば良い年した大人が不気味極まりない。増してそこに性欲が伴えば、この上なく嫌悪され少年の親から死を願われても仕方ないだろう。

結局のところ、少年愛者が少年を求める理由は「成熟のしていなさ」に本質があるのではないだろうか。小児性愛全般でしばしば言及される事実ではあるが。

性に目覚めていない時分、小学生は同性との交流時間が多数を占める(それ以前の園児は更に性が未分化である分、異性同性の壁は薄いが)。友情と恋愛の履き違え、など使い古された文言だが、上述の様な少年愛者はそこから脱皮できていない印象を受ける。心と体が追いついていないのだ。無意識的に少年なのである。そして思春期に手がかかるかかからないか、程度の時期で成長が止まっているからこそ、性的な事項は二の次で真っ先に「少年と仲良く遊びたい」という発想が出てくるのではないか。

それでは、少年愛者が少年を介して埋め合わせたいものとは何だ。
ずばり少年の小ささや柔らかさだ。先の「精神的結びつき」を全否定するようだが、有り体に言って少年の体だ。精神的に成熟していないにも拘らず、体は勝手に成長していく。背丈は伸び、ゴツくなり、毛は生える。体のギャップを補填するため、少年に執着するのではないか…。

比較的若い10代の少年愛者は、どんどんと少年からかけ離れていく自分のことで手一杯なのかもしれない。周囲を見渡す余裕なく、性指向が異性愛であっても気付けず少年にしか目が行かない。やがて性嗜好から性指向として少年愛に一本化されていくのかもしれない。

学問としての人相学は全否定されていると聞くが、それでも検挙された少年愛者の顔立ちはそこはかとなく幼さを感じさせる。大人としての威厳というか、年相応さを感じさせる者はついぞお目にかかったことがない。

もしかすると、そこに悪意は無いのかもしれない。純粋に「同年代の同性と遊ぶが如く」触れ合い、やがて一線を越える。だからこそ一層、世間にとって我々は悍ましい怪物なのかもしれない。「ニンゲン、トモダチ」と手を握りながら捕食してくるプレデターのように。


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