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昨日のわたしについての弁明

昨日の日記を今朝読んだら「白黒つけたがる面倒くさいやつだな~!」と思った。散歩が嫌いであるという事実は間違いない。だけど、なんでもかんでも答えを求めたがるのかといわれるとそうではない!という弁明がしたい。


本当は、曖昧なものこそが好ましいと思っている。「好き」とか「嫌い」とかたったふたつのもので分断させたくないのだ。「好き」の反対は「嫌い」ではないし、本来もっと混沌として両立するものだと思う。

本当は好きになりたいのに上手く距離感が掴めず、そのもどかしさを以て「嫌い」と言っているのかもしれない。


わたしの散歩嫌いにしても、歩くという行為が苦手なこと、目的がないと不安になること。そのふたつが主な理由だけれど、もう一個あげるとするなら「自然に対する感受性の弱さ」という己の欠陥を思い知らされるからもあると思う。


広がる青空、肌を撫でる風、暖かい日差しを「素敵だね」と共感を求められても、何も思わない。
当たり前の自然現象が素敵なことあるか?真っ暗な独房に数ヶ月閉じ込められて、ようやく外にでれたとかならわかる。生きている事実を感じて涙すると思う。

そのくらいの状況でないと自然の良さがわからない。(この状況も自然に、というよりは生の喜びに比重を置いているな…?)

ともかくわたしは自然に対してあまりにも「無」なのだ。


ただ、この世には散歩好きの人間のほうが圧倒的に多く、身体を動かして日を浴びることが医学的に良いとされていることも知っている。

その多数の中で「何ひとつ実感できない」というのは、目の前で明確にラインがひかれてしまい、自分がそちら側にいけないという事実を浮き彫りにする。


そんなイレギュラーな自分と向き合いたくないから「散歩嫌い」という一言で片付けてしまおうとしているのかもしれない。
「本当は多数とわかちあえない自分が嫌い」で、その実「わかりたい」のかもしれない。

わたしはその矛盾する人間の感情が大好きで、オセロのようにひっくり返せない、ひどく曖昧で不安定なものこそ面白いなあと思う。
なので「白黒つけられないものがあること」を実感し喜びを得るために「白黒つけたいわたし」がいるのかもしれない。




「白黒つけたがる面倒くさいやつ」であることを「そこまで面倒くさくはない」と弁明したくて言葉にしてみたけれど、ここまでの文章を読み返してみると「面倒くさいやつ」という印象は変わらないどころか、むしろ増していくばかりだ。


まあでも仕方ない。なんせ暇だ。時間があるから小説を読んで、エッセイを読んで、評論を読んで、としていれば思考は自ずと内側に向かっていく。


昨日の流れで散歩を例にあげたが、あらゆる事象に主観を通して判断していくとき、言葉の奥の部分をもっと紐解いていく必要があるのかもしれない。わたしは自分の感情を無視してしまうらしいので、もっと丁寧に一次感情を掬い上げていきたい。


ただ、それは日頃から慣れていないぶん非常に疲れる作業だ。見たくないと無意識に避けている自分に意識的に触れようとすることは、曲がりなりにも精神科に通院している人間がやるべきではないのでは?

うーん。もう、考えたくないから仕事させてくれ~~~😭!

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