塩辛の味
塩辛を美味いと思うようになった。小さいころは、それを食べる父を見て「なんちゅうこっちゃいな」と思っていたのに、不思議なものである。
どうせならとスルメイカを捌いてお手製の塩辛を作ってみるのだが難しい。塩の加減なのか、ワタの塩梅なのか、中々満足のそれができない。
考えてみると、塩辛などというものは実に珍妙なものである。三角のイカをひらいて真四角にし、さらにそれを切り取って、もといた場所よりも濃い塩に漬ける。ワタも同様である。ただでさえ不気味だというに、塩を振って寝かしたそれは、しなびた茄子のようになっていっそう不気味である。
こんなものを、いったい誰が考えたのだろう。先ず、イカを食べようとした時点で、相当のつわものに違いない。イカ、タコ、エビ、貝。どれも何処か薄気味悪い。シャコに至っては、食べるのかい、坊やおれを食べるのかい、ふん、食えるものなら食ってみなよ、と言いそうな見た目をしている。
頭ではそんなことを考えても、いざ食材を前にすると、こちらも真剣である。タコやイカへ「えいっ」と包丁を入れる瞬間は、武士のようにならねばならない。ご安心なされい、拙者若輩者ではございまするが、なるたけ一撃で仕留めましょうぞ、と胸の内でささやきながら「えいっ」とぶっすりいくのである。
祖父はよく塩辛を土産に買っていた。塩辛の好きな私の父、祖父からみれば婿殿への気遣いがあったのだろうが、海の近くへ行くと、必ず塩辛であった。
あれは確か、舞鶴へ行ったときの事である。当時祖父はもう晩年で、多少のことで息が切れるようだった。その祖父が、突然「舞鶴へ行かへんか」と言い出した。ならばと家族で出かけたのだが、祖父は疲れた様子で、どこかへ座って待っている事が多かった。
せっかくの旅行へ来てそれではつまらなかろう。じいちゃん車いすを借りようか。私がそういうと、昭和一桁生まれの意地があるのか、そんなみっともないものはあかんとけんもほろろに突っぱねて、決して乗ろうとはしなかった。
そんな祖父であったが、引揚記念館へ着くと、急に「おまえ、車いす押してくれるか。じいちゃんどうしても行かんならんねん」という。展示を見ながら何度も「申訳がない」というような事をいった。そして手を合わせて昭和の男がぽろぽろ泣いた。
その旅行でも、祖父は塩辛を買っていた。塩辛で戦争を思い出すのは、なんとも不思議なものである。
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