敦盛の最期

 後期の履修を組んでいると、講読の教授が以前と変わっている。少し考えて、そうか、先生は亡くなったんだ、と思い出した。先生が亡くなってもう一年になる。

 先生は、大きな寺の隅にある古いキャンパスがよくお似合いになる方であった。ダブルの背広をお召しになり、大きな分厚いメガネをかけて、いつも髪をきれいな七三に分けていらした。我々学生相手にも、常に「君と僕」である。さすが日本語学の研究者だと、学生はよく陰口をたたいていた。

 しかし、実はよく笑う冗談のお好きな方だったこと。毎年の新年会では、同僚の教授との拳闘が吉例となっていたこと。面倒見がよく、甘いものがお好きであったこと。余命を一年と宣告され、晩年は二冊の本をお書き上げになっていたこと。私が先生のそんな姿を知ったのは、全て亡くなった後である。

 国文科の一回生は、みな揃って先生の講義を受ける。先生は概論の講義を受け持っておられて、それは我々の必修であった。水曜の昼間、狭い講義室へぎゅうぎゅうに詰められた一回生たちは、必死にノートを取りながら、語学の指南を受けるのである。なにせ先生の講義は試験が厳しいことで有名であった。それに加えて、先生は声が小さいのである。

 マイクをお使いになるのだが、それでも後ろの席では聞こえない。もし、誰かがざわざわと騒ごうものなら試験の要点を聞き逃しかねない。故に、学生はみな必死であった。

 一度、講義の最中に、受講生の誰かが「聞こえないよ!」と叫んだことがある。先生はひょいと顔を上げると、声の主へ「聞こえませんか?」とお尋ねになった。するとまた「そうだよ、聞こえないよ!」と誰かが叫んだ。先生は「なんだ、聞こえているじゃありませんか」と答えて、講義をお続けになられた。そのやり取りが可笑しくて、学生たちは大笑いをした。

 そんなことばかり覚えていて、ろくに講義を聞いていなかったから、私は試験でひどく苦しんだ。苦しんだというよりも、問題文の意味すら理解できなかった。何とか書き込んではみたものの、それが全てあっているとして三十点しかない。これでは到底単位は出ない。しかし如何せん必修である。窮した私は答案用紙の欄外へ懇願の文章を書き込んだ。

あけに倒れたその首掻き切らんと御顔よくよく見奉ればぼうぼう眉に薄化粧、歳は定めし我が子と同じ、この君ひとり助けしとて勝ちたる戦負けにはなるまい、ここをばひとつ落ち延びよと涙で通す熊谷次郎直実……

 自身を平敦盛、先生を熊谷次郎直実に見立て、何とか見逃してもらおうという魂胆である。書き終わったとき、試験会場に残っているのはもう私だけであった。私は答案用紙を先生へ手渡すと、そそくさ部屋を後にした。先生は不思議そうに私を眺めていた。

 それからしばらく、私は先生を避けた。大学ですれ違った拍子に、何か小言を言われるやもしれず、自身も恥ずかしいことをしたという自覚だけはあるので、できるだけ先生に会わぬよう努めた。しかしちょっとした事情で、どうしても先生に挨拶をせねばならなくなった。私が挨拶をすると、先生は「おや、君ですか。君は確か、答案用紙に面白いことを書いていましたね」とおっしゃった。私は顔から火が出る思いであった。私が慌てて謝ると「いやいや、近ごろああいうことをする子は珍しいですからね、昔は僕らもあんな懇願文を書いたものです」とお笑いになる。これだけ気に入ってもらえているのだ、これならば単位は出るだろう。そう思った矢先である。

「しかしね、君。敦盛は死にますよ。それも潔く」

 先生はそうおっしゃると、にっこり笑ってお辞儀なすった。先生が亡くなったのは、それからしばらく経ってのことである。それが先生とお話した最後であった。

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