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トラウマ・インフォームドケアとは何か(TICその1)

 2024年6月、金剛出版主催の「トラウマ臨床の現在(いま)」というワークショップが開かれ、「トラウマインフォームドケア」と「トラウマインフォームド認知行動療法」に参加しました。2つのワークショップ、どちらも素晴らしかったのですが、特にトラウマインフォームドケア(TIC)はすべての人に知ってほしいと思い、今回取り上げます。
(チラシの表記は「トラウマインフォームドケア」となっていますが、私は「・」が入った「トラウマ・インフォームドケア」の方が見やすいので好きです。本論では略称のTICを使います)

▼トラウマ・インフォームドケアとは

 トラウマ・インフォームドケア(Trauma-Informed Care 略称TIC)とは、「トラウマを理解した(informed)対応」という意味で、クライアントに現在起こっている心身の症状や悩み、問題行動は、過去に体験した大小さまざまなトラウマが影響していると支援者と当事者が一緒に理解し、対処していくケアのあり方を指します。トラウマ体験を本人が語る場合もありますが、本人がその体験を語りたくなかったり、忘れていたり、現在の悩みと結びついていないこともあります。

▼トラウマのメガネ

 トラウマ体験との関係に気づくには、支援者が、「ひょっとすると過去のトラウマが関係しているのではないか」という目でクライアントに向き合っていく「トラウマのメガネ」が必要です。そうはいってもすべてのクライアントを「トラウマのメガネ」で見ていくのは現実的ではありません。「トラウマが関係しているかも」と考えるポイントの一つは、その問題が長引いていないか(たとえば6ヶ月以上)、あるいは問題が繰り返されていないか、といったあたりでしょうか。

▼トラウマ体験とは

 では「トラウマ体験」とは何を指すのでしょうか。
 誰でも日常的にさまざまなストレスを経験します。朝の通勤時、混雑した駅のホームで人とぶつかりそうになった。すると、「邪魔だお前!」と怒鳴られた。「えっ!」、前を見ていなかったのはあなたの方でしょう!?何でそんなことを言われなきゃならないの?何だよあいつ!と憮然として電車に乗ります。職場に着いてからも、あいつ、ふざけるな!と思ったり、まあ自分もまわりをよく見てなかったかもな、などと考えたりしますが、どうも腹の虫がおさまりません。でもランチを終え午後になると、そんなことは忘れてしまったりします。思い出しても、まあ仕方ないと流せたりします。「時間薬」という言葉があるように、時間が経つと忘れてしまうことも少なくありません。このように人はこころが傷つけられる被害に遭っても、自分で解消する力、自己治癒力を持っています。
 ところがこういった傷ついた体験、感覚が長く残ってしまうことがあります。パワハラとかセクハラ、カスハラ被害などは忘れようにも忘れられないでしょう。そういった被害が原因で心身に不調を来すことも少なくありません。このように、本人にとって身体的または感情的に有害で、長期的な影響を与えるものを「トラウマ体験」と呼びます。

▼PTSDとどう違うのか

 危うく死ぬかもしれない経験をしてこころに傷を負った状態をPTSD(心的外傷後ストレス障害)と呼びます。戦争の帰還兵が典型です。PTSDでは以下の4つの症状が特徴的です。

表 PTSDの主要症状
1.侵入(=再体験)症状
 自分の意思とは関係なく体験時の記憶や心理反応や身体反応が蘇る
 フラッシュバック、悪夢など
2.回避
 トラウマのことを思い出したり考えたりすることを避ける
 忘れるために酒を飲む、思い出す場所を避けるなど
3.過覚醒
 再体験を避けるための用心が過剰になった状態
 不眠、過度な警戒心、過敏、集中困難など
4.認知と気分の陰性変化(DSM-5で追加)
 持続的で過剰に否定的な信念
 こうなったのは自分のせいだ、もう誰も信じない、何も楽しめないなど
 

 しかし危うく死ぬような体験をしていなくても、これらと似た症状を呈することがあります。たとえば電車通学中に痴漢被害に遭って電車に乗れなくなってしまった女子高校生を診療したことがあります。無事通学できるようになるまで1年以上の時間を要しました。こんなに大きな日常生活の制限が生じていても、かつてはPTSDの基準を満たさないため、適応障害と診断されていました。適応障害と言われると、適応できない本人が悪いように言われている気がします。そんなことを気にする方が悪いと言わんばかりです。
 こういった問題を解決するために、DSM-5では、心的外傷およびストレス因関連症 (F43.89)という項目を用意しました。特に症状が6ヶ月以上続く場合を、「心的外傷後ストレス症様の症状を伴うトラウマに対する持続的な反応」と呼んでいます。こういった痴漢被害やパワハラ・セクハラ被害、さらにそこまで重大に思われるイベントではなくても、上司の叱責や差別的扱いなどといった出来事をきっかけに心身の不調が6ヶ月以上続く場合は、広い意味でのトラウマ体験と言っていいでしょう。

▼トラウマ体験は「こころのケガ」

 トラウマ体験は「こころの傷」、あるいは「こころに刺さったトゲ」、みたいな説明をしてきました。「開いたままの傷口」と言ってもいいかもしれません。ちなみにセミナーの講師、野坂氏によると、子どもに説明する時は、「こころの傷」よりも「こころのケガ」という表現の方が子どもには受け入れやすいそうです。「こころの傷」という表現だと「傷物」みたいな連想が生まれるのでしょうか。「ケガ」なら治せる!と思うのかもしれません。
 先ほどの駅のホームで怒鳴られたようなエピソードは、記憶としては忘れないと思います。こういった記憶は脳の「記憶の保管庫」に収まりやすい形に整理され、収めておけるようです。必要な時にそれを引き出し、体験した時の感覚や感情なども思い出すことができるでしょうが、その時の生々しい感覚は蘇りません。
 それに対しトラウマ体験は、“熱すぎて”、通常の記憶の保管庫に収めることができません。思い出すのも嫌、避けたいから意識の外に追いやろうとしますが(意識と無意識の境目あたりの暗がり)、いつ飛び出してくるかわからず、我々をずっと脅かし続けるのです。地雷みたいなものです。その記憶を呼び起こす刺激があると(リマインダーと呼びます)、その出来事の感覚が不意に意識の領域に現れ、不快な感情を生み出します。あるいはその記憶が蘇らないように、無意識的に抑え込むのにエネルギーを浪費してしまって、心身の不調が続いたりするのです。
 次号では産業領域におけるトラウマ・インフォームドケアの必要性について考えます。 

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