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サステイナブル・ライフとマルチチュードーー上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』より

社会学者のT.W.アドルノらは、権威主義パーソナリティという概念を提唱しました。権威主義パーソナリティは、権威ある者へは無批判的に服従や同調を示し、弱い者に対しては力を誇示して絶対的な服従を要求するようなパーソナリティ特性を指します。

他者の行為を決定するものには、権力と権威があります。

権力(power)は、社会的地位にともなっていて、他者を服従させたり自らの意志に従わせる能力のことです。要するに、地位がなくなれば、権力は発動しないわけです。

これに対して権威(authority)は、確かに地位がともなうこともありますが、それよりも、服従者が自発的かつ判断停止して権威として受け入れるという点が重要です。ですから、権威は、服従する者がそれを受容し内面化しなければ権威としては成立しないわけです。

上野千鶴子さんは、権威が内面化されたところからくる恥の感覚が、発言しない、かっこわるいことをみんなの前で言ってはいけないとさせ、しいてはオリジナルな考えが出てこないと嘆きます。そして、日本の学校制度はオリジナリティを生み出すような存在をつくりえないとして、次のように言います。

人と違うことを言うたびに頭を打たれ、足を引っ張られるような経験を十八年間やってくるか、それとも人と違うことを言うたびに「それはおもしろいね、よくやったね」と、頭を撫で、手を持ってひっぱりあげられる経験をするかの差なのです。ひとえにしかけしだいだと思います。そのしかけをつくってこなかったことが、もしくはまったく正反対のしかけをつくってしまったことが問題なのです。

上野千鶴子 2002年『サヨナラ、学校化社会』

このように学校化してしまった社会は、未来のために今をガマンする生き方を強いると言います。それは、「あなたの将来のために・・・」とささやかれる呪いでもあります。

しかし、いまのような不況の時代にあっては、未来のために今をガマンしたところで、大損することになりかねない。上野さんは、だからこそ、現在を犠牲にしてガンバる「近代」の生き方からの転換を説きます。

上野さんの言う、サスティナブル・ライフ(持続可能な生活)としての、マルチ・インカム(複数収入源)とセルフ・エンプロイド(自営業・フリーランス)は、老若男女問わずこれからの時代を生きるうえで知っておいてよい働き方のように思います。

実際、不況になるたびに、自営業者というカテゴリーが数パーセント増えることが統計的事実として示されています。上野さんは、公務員とか教師であることは自分の活動のひとつにすぎず、いつそれがなくなっても生きていけるし、好きでやっていると言います。その意味で、自営業的な生活をしていると言い、網野義彦さんを引いて「ゴー・バック・トゥ・ザ百姓ライフ」と主張します。

百姓とは、「ひゃくせい」「くさぐさのかばね」という意味で、多角経営の自営業者を意味します。「百個の技をもつ」というのもあるようで、確かに、概念的な意味で「百姓」と自称する方々の中には、多様な収入口をもち、多彩な生活を送る人もいます。

ここまで書いて、昔、新しい時代の風を感じてわくわくしながら読んだ、アントニオ・ネグリ&マイケル・ハートの『マルチチュード』を想い出しました。

マルチチュードとは、単一の同一性には決して縮減できない無数の内的差異から成る。その差異は、異なる文化・人種・民族性・ジェンダー・性的指向性、異なる労働形態、異なる生活様式、異なる世界観、異なる欲望など多岐に渡る。・・・大衆(マス)の本質は差異の欠如にこそあるのだ。・・・マルチチュードという概念が提起する課題は、いかにして社会的な多数多様性が、内的に異なるものでありながら、互いにコミュニケートしつつともに行動することができるのか、ということである。

ネグリ&ハート 2004年『マルチチュードーー〈帝国〉時代の戦争と民主主義』

マルチチュードという概念がもつ力はここに書ききれないほど豊かなもので、いまもって、未来への指針を与えてくれる気がします。それを実現しようと思うと途方もなく思えますが、一方では、気づいたらマルチチュードだらけになっているようにも思います。

そのときに淘汰されるのは、いま、何かを問うことなく居る人たちを支えている自明性なのかもしれません。

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