暇と退屈の倫理学

新明解国語辞典によると、
暇とは、いましなければならない仕事などが無くて、自分の好きなことができる のんびりした時間や状態。
退屈とは、差しあたって心を集中させるものが何も無くて、時間を持て余すこと。
とあります。

つまり、退屈には暇である状態が前提となりますが、暇であるからといっても必ずしも退屈を感じるものではない、ということです。

有閑階級、正確に言うと有閑階級の伝統をもつ者たちは、暇を生きる術を知っていた。彼らは品位あふれる仕方で、暇な時間を生きることができた。
 それに対し、新しい有閑階級は暇を生きる術を知らない。彼らは暇だったことがないから。彼らは金のためにあくせく働いてきた。だから彼ら新しい有閑階級は「品位あふれる閑暇」を知らない。有閑階級の伝統をもたないから。よって暇になるとどうしたらいいのかが分からない。暇に苦しみ、退屈する。

117頁

ここに「浪費」に対する「消費」があらわれます。
浪費とは、たまにとる豪華な食事にたとえられ、それは豊かさ(満足)をもたらし、ストップするものだと説明しており、一方消費とは、グルメ情報などで紹介される店に次々と訪れることに関して、〈消費者が受け取っているのは食事という物ではない、その店に付与された観念や意味である。この消費行動において、店は完全に記号となっている。だから消費は終わらない(153頁)。〉終わりのない消費行動によって、退屈からでようとする、ということでしょう。

そして、フロイトの「快原理」を取りあげています。性の快楽は〈オルガズムを得ると、興奮は一気にさめ、心身は安定した状態を取り戻す(343頁)〉ためにある、としているのですが、〈この快の状態は、退屈という不快を否応なしに生みだす(344頁)〉ことになるのです。これは〈人間が本性的に、退屈と気晴らしが独特の仕方で絡み合った生を生きることを強いられている(344頁)〉からだと推測しています。

この安定した退屈からのがれるために、自ら興奮状態におちいり、オルガズムを得る、という繰り返しである、終わりなき「消費としての性」となります。

そのような消費行動にとらわれないために、「浪費を享受する」という選択肢があります。

訓練が必要なのは別に「教養」を必要とする娯楽だけではないのだ。食のような身体に根ざした楽しみも同じく訓練を必要とするのである。本書はだからこそ、そのような日常的な楽しみに、より深い享受の可能性があることを強調したいのである。

358頁

ちなみに私は、若いころから読書の習慣がありますので(冒頭の定義にしたがえば、本を読むのは暇があるからになります)、退屈を感じた記憶は、ほとんどありません。

『暇と退屈の倫理学 増補新版』國分功一朗 太田出版 2015

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