欲望の経済を終わらせる

新自由主義は政府にGDPの上昇を至上命令とさせています。そして、GDPは市場の活動によってもたらされるのだから、市場に適さないものまで市場化(商品化)されることとなります。それは、公的な財源によってまかなわれていたことまで市場化され、それが財政削減へとつながり、福利は縮小し、あまねく行き渡らなくなってしまうことになりました。

所得格差を是正し、まずしい人たちの命やくらしを支える財源が小さくなれば、当然、所得格差は広がり、社会は不安定化する。この問題を解決するために、新自由主義的な政策を主張する人びとは、家族や共同体の存在が、人々の暮らしを支えるという「別のロジック」を必要としたのである。

35頁

そもそも、新自由主義はグローバル化と競争社会をめざして、あらゆる障壁(拘束)から自由であることをめざしています。それは家族や共同体を機能不全におとしいれることでもあります。しかし、それをセーフティネットとして復権させ、利用しようとします。そのような能力は、もはやないのにもかかわらず。

 「経済の時代」では、農業を営んでいた人びとが都市にながれ、「生活の場」と「生産の場」が分離する。ニーズは、メンバーどうしによる「共同行為」ではなく、「個人の責任」とされ、働いてかせぐ賃金によって自己責任で満たされるようになる。共同に行為するための場所の意味も、必要性も、以前より格段にうすれることとなる。

132頁

しかし日本では、貧困は見えなくなってしまっています。

 実際、「平成30年国民成果いつ基礎調査」によれば、生活にゆとりがあるという人たちは約4%しかおらず、苦しいとこたえる人たちはほぼ6割である。それなのに、わずか4.2%の人たちしか自分が「下」だとみとめない。これはあきらかにおかしい。
 (略)
 もし、低所得者層である自分は貧困層ではない、社会的な救済の対象ではない、その意味でギリギリ「中流」に踏みとどまっている、そう信じたい人たちが少なからずいるとすれば、貧困撲滅、反貧困ということばは、彼らにとっては全くの他人ごとでしかないだろう。

188-189頁

貧困層を「下」流と見くだすという態度には疑問を感じます。たとえば「就職氷河期」世代の人たちは、たまたま求人の少ない時期に卒業し、就職しなければならなかった人たちで、貧困化率も高いだろうことは予想できます。たまたまでしかないのに、「下」層に固定される、そしてそれを「ひけめ」とみなしてしまい、世間の目を気にかける、という事態が起こっているのではないでしょうか。

〈そもそもの話をしよう。日本の労働人口にしめる公務員の割合は先進国で最低だ(Government at Glance 2017 OECD)〉。〈これにたいし、企業を中心とした日本の国際的な労働生産性の低さは、すでにひろく知られた話だ〉(212頁)。これはおそらく、日本には企業が多すぎるために、競合・競争による利益の減少があり、効率的に人材を必要なところへ配置できなくなってしまっている、ということある、と考えられるでしょう。

そもそもの話ですが、労働生産性のように全てを数値化して、それを基準にして優勝劣敗でシロクロをつける(生産中心)社会の弊害が無視できなくなり、必要なものが評価される(使用中心)社会への移行が課題なのです。広い意味でのソーシャルワーク/ソーシャルワーカーの価値が、正当に評価され、それを税によってまかなうことの重要さを指摘しています。

井出英策『欲望の資本主義を終わらせる』
集英社インターナショナル新書 2020

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