遺伝子か生物か

今は手元にないのですが、リチャード・ドーキンス著『生物=生存機械論』(今は『利己的な遺伝子』としてかなり分厚くなっています)についてですが、その読んだ印象、というかあまり印象に残りませんでしたし、再読もしていません。

その後、いろいろと評判にふれていると、生物は遺伝子を伝える乗り物にすぎず、個体が滅びても、遺伝子は子孫に伝えられるので、受け継がれていく、というまさに生物個体は「遺伝子の乗り物」という内容であった、とされているようです。

なぜ、たいした印象を持たなかったのでしょうか。後から振り返れば、私たちは、ゆえなく生まれ、生かされ、そして死んでゆくという考え方に、シンパシーを持っていたからなのかもしれません。

しかしその遺伝子も、すべてが子孫に伝わるのではありません。遺伝について教科書的な説明をなぞります。

人間のDNA(ゲノム?)には、二三対(二倍体)四六本(一倍体)の染色体が備わっています。その四六本の染色体を両親からすべて受け継ぐと、九二本となり、同じ生物といえなくなってしまいます。そこで、卵と精子という「配偶子」は、二三対の染色体のどちらか片方だけの、二三本の染色体が備わっている「一倍体」となり(これを「減数分裂」といいます)、そして、一倍体である卵と精子が受精して受精卵となり、二三対を備えている「二倍体」になります。これが「有性生殖」のシステムで、子は親と違った「遺伝子型」をもつことになります。

つまり、ふた親は子に自身の半分ずつの遺伝子を遺伝させているだけなのです。ほとんどの動物は、この段階にとどまりますが、人類は、何代でも祖先も子孫も続くことを認識できます。そして、一代経るごとに、自身由来の遺伝情報は半減してゆき、それが相続されない(子孫に受け継がれない)可能性がある、ということも想像できます。ということは、私たちが、ミトコンドリア・イブの存在を想定できるように、「種」というものを前提にすることが可能だ、ということになります。それをふまえた範囲内で、「個体としての生物=遺伝子の乗り物」と考える必要があるのかもしれません。

分裂によって増殖する無性生殖であれば、オスを必要としないので(オス・メスの区別はないでしょうが)、同じものが複製されます。こちらの方が「生物=遺伝子の乗り物」にふさわしいように感じます。しかし、これでは環境などの変化に対応できません(個体の変化はランダムな複製のエラーを待つしかないからで、しかも、それで環境の変化に適応できるという保証はありません)。

対して、「有性生殖」の場合は、「世代交代」を経ることで、環境に適応することが可能になります。環境への適応に不都合な遺伝子をもつ個体が、「適者生存」の論理に従い、子孫を残すことが困難になるからです。生物は遺伝子の複製のための「生存機械」である、とされる所以です。「個体としての生物」という側面のみを強調した「きらい」もありますが。

生物は遺伝子を受け継ぐことで、種として存続してゆくことが可能となります。それゆえ、生物個体は「遺伝子の複製のための生存機械」である、と述べました。そして、それは生物誕生以来、40億年も前からのことです。しかし、遺伝子はそれ自体だけでは、なんの働きも起こせません。生物個体という環境のなかにおかれ、つながりあい、おかれた場によってさまざまな働きをあらわします(なんだかウイルスみたい)。たとえば、それが「目」というかたちや「臓器」として表現されたり、という具合に。

遺伝子の複製のために生物個体を必要としているのか、それとも、生物個体の生の実現のために遺伝子が必要とされるのか、どちらに重きをおくべきか、ですね。「手段」と「目的」、「利己的」か「利他的」か。どちらを「表」と見、もう一方を「裏」と見るか、の違いだけのように思われます。

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