日本国民であるために その2
前回、個別社会が孤立して存在し、一般意志が成立していない状況までをみました。これは日本社会において、顕著にみられる特質といえるのではないでしょうか。世界中で社会が分断され、対話が成り立つ土壌の喪失が言われていますが、日本の状況は少し異なるように思えてなりません。その理由は「主権者」という概念にあるように思われます。
大日本帝国憲法では「天皇主権」、日本国憲法では「国民主権」がうたわれています。しかし、帝国憲法では天皇は「主権なき主権者」(天皇機関説!)であったことは自明ですし、ということは、国民主権であっても「主権なき主権者」である、と類推することができます。
それは、統治する者になれないことを意味し、ひいては、統治される者として「私的な世界」を享受できない、ことになります。
そして、一九四六年一一月三日に日本国憲法が公布されたとき、天皇の言葉が添えられていた、のですが。そこには、〈日本国憲法が明治憲法の改正手続きに基づいて公布されたこと〉(216頁)が明記されている、と言います。「主権なき主権者」はそのまま持ち越された、のかもしれません。
また、一九四六年三月六日に憲法改正草案要綱の発表にともなって出された天皇の勅語に注目しています。少し長いのですが、英文の直訳(カッコ内は勅語原文)を引用します。
カッコ内にある二つの「日本国民」は英文では、それぞれ”Japanese people”と” our nation”であり、そこから〈前者は「日本政府の最終的な形」を「決定」する日本国憲法の根拠としての「意志」の主体を指すので「人民」であるのに対して、後者は戦争放棄を「決意」する主体、すなわち日本国憲法が制定されたあとの主体を指すので「国民」の語がつかわれている、ということだろう〉(214頁)という解釈を導いています。
つまり〈この勅語は、日本国憲法が「人民」の意志に基づく社会契約の産物〉(同)、つまり、一般意志にしたがって生まれたものだ、ということを示している、としています。
しかし、当時の日本では、軍事体制からの「解放者」としてマッカーサーがとらえられていて、彼によって自由がもたらされた、認識されていました。
〈日本の主権は実質的にも形式的にもマッカーサーに握られ〉(215頁)ていたのですから、〈「人民」の一般意志を根拠とする説明を貫徹しようとするなら、日本の人民はマッカーサーから主権を奪還した、と理解しなければならない〉(同)はずですが、〈そのような事実は存在しない。〉(216頁)
そのことは、〈「理念」としての社会契約に基づいているはずの主権は、日本国民が憲法によって制御できる範囲の外、すなわちアメリカに流出している。それゆえ、そこでは「統治される者」が「統治する者」でもあることが見出される可能性は、そもそものはじめからない〉(261頁)、ということです。
ではどのようにすれば、そこから脱出できるのでしょうか。解を、日本国憲法の前文に求めています。
この前文を〈読む具体的な個人が「過去」の人であろうと、「現在」の人であろうと、「未来」人であろうと、それをいまここで社会契約を結ぼうとする宣言として読むのなら、同じ「分割不可能な集合体としての国民」であることが事後的に見出される。したがって、この分を私が今ここで読むときに私を「信頼」している、と伝えてくるのは、過去の「日本国民」でも、現在の「日本国民」でも、そして未来の「日本国民」でもあることが事後的に見出される〉(267頁)、という宣言としてとらえ、〈「行為遂行的」な発話として、今ここで読むこと〉(277頁)を経験することで、「無責任の体系」からの解放と、「私たちを取り戻す」ことになる、と結論しています。
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