武器としての国際人権

日本政府は人権条約機関から出された勧告に、ほとんど対応していない、とはよく指摘されています。その代表として、〈二〇一三年六月には、当時の安倍政権は条約機関の勧告には法的拘束力がないので従う義務がないという閣議決定をした〉(43頁)、というケースをあげています。

これは、〈安倍内閣が6月18日、旧日本軍の「慰安婦」問題に関する国連の拷問禁止委員会の勧告について、「法的拘束力を持つものではなく、締約国に従うことを義務づけているものではない」とする答弁書を閣議決定し〉(月刊イオhttps://www.io-web.net/ioblog/2013/07/04/75794/)たことを指しています。

なぜ、勧告に対応せず、法的拘束力がない、と閣議決定されるのでしょうか。国連憲章第二条七節に、〈この憲章のいかなる規定も、本質上いずれかの国の国内管轄権にある事項に干渉する権限を国際連合に与えるものではなく、また、その事項をこの憲章に基ずく解決に付託することを加盟国に要求するものでもない〉、とあることに根拠をおいているように思えます。

つまり、「国内問題だから干渉しないでくれ」、と言っているに等しい(多くの強権国家のようにあからさまに、ではありませんが)、のです。しかし多くの、いわゆる先進国などは「勧告」に対して、真摯に対応しようと試みています。

寺中誠氏の発言を引用しています。〈条約機関の審査の場に出てきても、帰国したら同じやり方を続けるだけで、改善に向けた勧告を聞く気がないのなら、条約に入った意味はどこにあるのか〉(43頁)、を逆にとらえればいい、「条約に入った意味を考える」を第一義としています。

この日本の問題点を考えるうえで、重要と思われる指摘をしています。

 国際人権基準の国内での実施のために、研究者の役割や責任も大きいはずだ。だが日本では、学会が何か政府の政策や法案などの問題に対して声明を出すといったアクティビズムを行うことは、アカデミズムの中立性を損なうということで強い抵抗がある。つまり、アクティビズムとアカデミズムが融合していないといえるだろう。専門家は社会から遊離していて、専門家の中だけで議論している傾向が強く「日本の研究者は所属している学会に就職する」と指摘する識者もいる。 

294頁

一人の研究者としてではなく、学会の一員として自己規定をしている、ということですね。つまり、学会という企業の従業員ということです。関心は企業内のことだけであって、社会への発信にはないのです。

 司法試験は三つの必須科目(公法系、民事系、刑事系)と労働法、環境法、租税法などの八つの選択科目から一つを選択する。その選択科目の一つが「国際公法」で、国際人権法は国際公法の一部に含まれているに過ぎない。そして、二〇二一年も国際公法を選択した受験生は合格者の約一・三%に過ぎなかった。 

300頁

八つのうちの一・三%といえば(「選択した受験生は合格者の」という基準では実態がつかみにくい、です)、均等割りの十分の一弱ということになります。市民がいくら関心をもったにしても、国際人権に詳しい裁判官や弁護士が少なく、研究者も開かれた対話に関心を持ちにくい、のでは「武器としての国際人権」への道のりは閉ざされてしまいます。

国際人権を擁護する根拠として、〈日本国憲法は、条約を誠実に遵守することを定めている(第九八条二項)〉(30頁)、を取りあげていますが、憲法前文には国の目指すべき意思として、以下の文章があります。

われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国との対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

藤田早苗『武器としての国際人権 日本の貧困・報道・差別』集英社新書 2023

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