「新テレビ学講義」を読んで 〜「人材」と「見てほしさ」〜

P165では「作り手の人材の多様性」について述べられている。

「作り手たち」自体に多様性があることが、多様性のある番組を作ることができるということである。
テレビ創世記はさまざまな業界からテレビ業界に飛び込む人が多かったのかもしれないが、現代においては、テレビ好きがテレビ業界に憧れてテレビ業界に入り、テレビを作る技術を身につけていき、
テレビっぽいテレビを作っていくことで満足したり、憧れの出演者さんと一緒に仕事ができることの楽しさで留まってしまう人もいるし、その気持ちもわからなくもない。
ただそれが積もり積もって、業界自体の多様性を失っていっているということだ。

しかし人材の交流という面において、テレビ業界は中途で他業種から入ってくる人たちには、馴染みにくすぎる職場だと思う。
ADという修行を数年重ね、若手Dとして数年がむしゃらにVを繋ぎ、まともに番組全体を考えられるようになるのには10年はかかる。
そして特殊な当たり前の構造が出来上がりすぎていること、他業種では当たり前の文脈が通じないことなどがただでさえ広がりがない人材の多様性を減らしている。かといってこの体制を変えるのは難しいと思う。

テレビに憧れて入ってくる人は今後も減っていく。優秀な人材が入ってこないという事実は変わらない。
解決策としては、元々テレビに興味がなかった、本当はもっとやりたいことがある人たちに「ある程度の表現の自由」を提供して入ってきてもらい、テレビを通してこれまでになかった文化を表現していってくれるのを期待すべきなのだろう。

P166では視聴率を取りにいくことの是非に関する議論の中で、「もし制作者が、ひとりの責任ある表現者であるとするなら、自ら表現するものを、一人でも多くの人に知ってほしい、と思うのが当然」という話が出てくる。
この話に関して僕自身は現在の状況から否定的な感想を持った。
たしかに、自分の作った作品を本来は多くの人に見てもらうことが幸福なことであるという意識があったはずである。
しかし、現代は誰でもSNSなどで声を発信できる、その結果、「叩く、叩かれる」議論が発生している。多くの人に見られることには、不必要に叩かれたり、無意味な炎上や苦情、それによってコンプライアンス意識の改訂などが発生してきているのである。
だから自分の作り出した面白いものは、多くの人に見てもらいたいわけでは無い、話の通じない人には見てもらいたいとは思わない、という意識になってしまっているのである。
「見てほしい」には「まともな話の通じる人に見てほしい」「番組が終わらないぐらいの視聴率を維持していたい」「話の伝わらない人までには見られすぎたくない」という相反する意識をはらんでいると私は思う。

この解決策としては、SNSやネットニュースをなくすことが最も効果的なのだが、それは難しそうなので、制作者が(演出側も管理側も)SNSやネットニュースを一切気にせず、無用な一部の世論に流されずに面白いと思って制作したものが、「本物の大衆」を捉えて、結果的に視聴率を取る、という意識を持つことが重要なのだろうと思う。

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