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鏡が鏡で無くなる時

今朝、起きがけのビジョンで鏡を見ました。
それで考える事が出来たので書いてみます。

我々は鏡を見ている…
相手は鏡…
と言うけれど、それは今の、見ると見られるの関係だから成り立つ。

つまり洗面所に立つイメージです。
主体(こっち)が客体(そっち)の関係で居る限り、この状態はそのまま続きます。

でも、知覚が主観なら、主体と客体(こっちとそっち)が知覚では逆転します。
するとそれは鏡では無くなり、主体になります。

だとしたら。
先程までの主体であった、鏡に写っている人物は何になるのでしょうか?

目の前が他者なら、他者が見ているその人は、誰でしょうか?
少なくとも、この段階になったら今までの私では無くなった気がします。

つまり、この視点(鏡側、他者だった側)から、今まで自分としていた人物を見る…それはどんなイメージでしょうか。

推測ですが、自分で自分見るような、ジャッジするような、そんな感覚になりそうです。
自己肯定感とか自己否定を初めて自己側から出来る…と言う感じでしょうか。

何と無くですが、この場所が理性とかそんなイメージです。
社会人としてこうあるべき、では無く、自分とはこうあるべきを自分で決める…と言いますか。
何だか、高尚な自分のイメージです。
ハイヤーセルフってこんな感じですかね?

鏡うんぬんの話は、ヌーソロジーではψ9、10までの関係のような気がします。
見ると見られるがψ5、6で、7、8でモノの中で回転。
そこから飛び出すψ9と10が今までのψ3、4と逆向きで重なる…と言う感じですかね?
あってますか?

数字で追うと、ψ10、11はモノの中で多くの存在と交わっていますから、そこから出た感性や思形は個人の物では無いとも言えそうです。
そこにある、根底とか意味が共通になっている…そんな感じです。
ですから、言葉はともかく、感性も個人の物では無い…とは少し寂しい話ですが、直感が宇宙から来るとか、天啓なら合ってますね。

知覚や思考が無い状態で直感を受ける事は出来ないと思います。
意味が意味にならないです。
だから多くの直感を得て発露するには、知覚と思考の広さ(深さ)が必要です。
受け取るだけならきっと誰にでも出来ているんです。
だけどそれは自覚が出来ない、見えてないだけだと考えるのは変な話でしょうか。

人間は未だの神の存在を証明できていない。
神がいるのかいないのか、信じるのか信じないのか。
そんな二元論の中の彷徨っています。

でもそんな二元論も先程の考え方をトレースすれば、簡単に覆りませんか?

ただ見えていない。

もしそうなら神様が存在している事の意味は、意味を為さない…なんてね。
そしてこれらは、自分が他者の知覚を見る事、知る事が出来ない事と同義なんだと思います。

更に言えば、未だに自分から見えていない存在は、実はずっと身近に居ます。
それは自分の内面です。
私の事を私と言う私…とも言います。

なら、私は神様です。
そして神様である私を見る事が出来るのは、鏡を見ていた時に客体だと思っていた、自分の知覚で、君とかあなたです。

他者の知覚を見る事が出来ない事。
自分から自分が見えない事。

ゴルゴダの丘の上で磔にされたのは誰ですか?
そしてその場に留めたのは誰ですか?
その楔から離れる時、神様は現れるのかも知れません。

すると同時に多くの神様が現れる。
ならこれは八百万の神の世界観でしょうか。

だとしたら、今の世とそんなに変わらない気がしますね。

ただ我々がより多くのものを、見たり知れたりする事が出来るようになるだけで…。


関西ヌーソロジー研究会

先日参加した勉強会からも、思考の材料を得られました。
ありがとうございます。

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