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【TOP INTERVIEW: 『ACROSS』編集長 高野公三子】継続は力なり。我が人生に定点観測あり!

ウェブマガジン『ACROSS』の核ともいえる「定点観測」は、今 和次郎(こん わじろう)が唱えた「考現学」にある、路上をありのままに観察することの大切さを第一とし、街と若者とファッション、そしてカルチャーを観測・分析。その活動のすべてを指揮する、編集長の高野公三子さんが今回のゲストです。「定点観測」の40年の軌跡を1冊の本にまとめることとなった今、もう一度、ストリートファッション・マーケティング誌『アクロス』がしてきたことと、高野さん自身のヒストリーにスポットを当てて、お話しを伺いました。(撮影:徳岡永子)

「小さい頃引っ越しっ子。だから異文化に対して敏感だったのかも。それが原点かもしれない」


ー「定点観測」の40年分を本にまとめていると聞き、駆けつけました。1977年に創刊した『アクロス』(創刊当時の名称は『月刊アクロス』)が、紙媒体であった時からウェブ媒体となった今までを知っている高野さんでないと、出来ない仕事と思いまして。私の中で高野さんは、根っからの編集者気質を感じる人です。見たもの聞いたものを、個人で楽しむにとどまらず、とにかく誰かに伝えたい!発信したい!という気持ちに溢れている。実際に行動していますよね。本の編集作業で忙しいのに、帰宅途中の深夜の、街の風景をSNSでアップしていたり。

世の中で流通しているものが自分の価値観とどうしてもちょっとずれていて「どうしてなんだろう?」という疑問を、常に持っているように思います。同じように違和感を感じてる人がいるのでは、と思って。それがどこにいるのかを見つけてシェアできる、そんな仲間を増やしたい。そう思っているのかもしれないですね。

ー高野さんのある種の反骨精神、一般的に流行っているものに簡単に流されない性格は、どこで培われたのでしょうか?どんな子ども時代でしたか?

小さい時から、引っ越しっ子だったんです。親の転勤で、東京と地方を行ったり来たり。さらに海外にも行きました。常に上履きの色が違うとか、小さな違いに敏感だったように思います。今の子達に聞いたら、上履きの色は選べるそうですね!

ーランドセルも選べますね(笑)

東京と地方を行き来していく中で、体操着のラインが入ってるか入ってないか、ブルマの形とか(笑)。転校が多いと、そういう、人と違うことが自分の中で当たり前みたいになってくる。違うことでいじめられたりもするけれど、別に平気さ、みたいな。地方に行ったときはいち早く方言を覚えましたね。周りに馴染むには、まず言葉から。1年くらいしたら逆にリーダーシップを取っていた!みたいな。きっと子どもながらの生きる知恵だったのでしょうね。

ー自己防衛本能でもありますね。

はい、そうだと思います。当時は昭和だったから地方と東京が今よりもっと違いがありました。街の風景はもちろんのこと、家の造りも違う。また、海外の体験は大きくて、南米のペルーという国に住んでいたのですが、人種も違うし、アメリカンスクールに通っていた時は、欧米人のメリハリボディに圧倒されたり、服装のセンスが違うだけでなく、学校に持ってくるペンケースとか使ってるノートも違う。母は『ミセス』、私は『りぼん』と『ミュージックライフ』を航空便で定期購読していたのですが、現地の雑誌とのクオリティの差は、唯一うらやましがられましたね。そういう異文化に自分が移動していたからこそ敏感になった、というのが原点かもしれません。

ー私も昭和生まれなので、その感覚は分かります。東京以外はどこも地方だった、と言っていいのではないかと思います。

基本的に社宅住まいだったのでフォーマットは決まってる。初めは2LDKで、お父さんが偉くなってくると3LDKとか。そういうステップアップみたいなものが変化の軸としてありながら、社宅と地元の家並みの違いみたいなものも感じていましたね。そういった観察の経験が生きているのか、仕事でいろんな都市でフィールドリサーチをすると、街のつくりとかランドスケープ、そこにいる人との相関関係のようなものが見えてきてワクワクします。まち歩きが基本的に好きなんだと思います。

ー『アクロス』のコンセプトには「生活者のリアルな姿を捉えるため、人、モノ、街、場を観察、分析」というのが掲げられています。高野さんの観察には、街はもちろん、人に対しての愛情も感じます。

街とかまちづくりとか、建築家的な目線で考えた都市もあると思うのですが、私は「街は使う人のもの」っていう感覚が好きです。綺麗に作った建物も実際には変な看板や足元注意というシールが貼られたりして。せっかくのデザインが変容していくシーンって、けっこう現実にはあるじゃないですか。私はそっちの方が面白くて好きですね。お店と同じで街も生き物なんだと思います。

ー「定点観測」はファッションを切り口として、路上を観察していますが、高野さんはファッションをどんな風に意識し始めたのでしょうか?

そうですね。けっこう普通です(笑)。幼いときからピアノを習っていたんですが、発表会の時にワンピースを着せてもらうのが嬉しかったですね。それに合う靴を買いたいんだけれど、足が大きいから子どもの売り場には無い。大人の売り場に行かなくちゃいけなくて、子供ながらに何て不自由なんだって思っていました。けれど海外に行ったら、種類が豊富で全く問題無かった。

ーグローバルでの地域差みたいなものも、小さい頃から感じていたわけですね。

そうですね。母が百貨店が大好きで、よく一緒に連れて行ってもらいました。広島に住んでいた時は、天満屋と福屋という百貨店があって母は福屋びいき。いっしょにお買い物をしているあいだ、父は書店で過ごしていました。たぶん、そこでジェイプレス(J.PRESS)とか、ジュディアン(JUDY ANNE)とかのパンタロンスーツを買ってもらった。赤と緑のチェックのウール地で、ダブルのジャケットとパンタロンのスーツ。嬉しくて家に帰ってから襖の前で写真を撮ってもらいましたね。それが最初のファッションを意識した写真かも。

「雑誌を作るには、広告とかマーケティングが必要だなと思って、最初はマーケティングの会社に務めたわけです」

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ー70年代のファッションリーダーは、確かに百貨店でしたよね。そういった経験から、パルコに入ろうと思ったのですか?

いえ、違うんです。新卒で入社したのはマーケティングの会社です。先ほど海外に住んでいたときの話をしましたが、現地の雑誌と日本の雑誌のクォリティの差みたいなものがすごくありました。『ミュージック・ライフ』はほぼオールカラー。ミュージシャン達のカッコいい姿が、ツルツルの紙にめちゃくちゃクオリティの高い写真で紹介されている。ペルーの雑誌はもちろん、アメリカの音楽雑誌も紙質がすごい悪い。ファッション雑誌も『ブルダ(BURDA)』くらいしか無かった。そのへんから雑誌という紙のメディアの仕事をしたいなって思うようになりました。大学生の時、草思社という小さな出版社でアルバイトをしていたのですが、ある日、『call813』という英『i-d』と提携した雑誌のプロジェクトがスタートしたんです。私は単なる雑務バイトだったのですが雑誌って楽しいな、って思いましたね。でも、雑誌を取り巻く環境には広告とかマーケティング戦略も重要だと思うようになり、マーケティングの会社に就職したんです。

ーそこですぐに雑誌に行かないで、マーケティングの道を選ぶところが、分析魔の高野さんらしい!

86年に会社員になったんですが、男女雇用機会均等法が施行された年です。男性と女性の給料が一緒のところにしか絶対就職しないと心に決めて就活しました。ですから、80年代はマーケティングの会社で商品開発や社内報の制作、カルチャースクールの企画とか、いろいろやりましたね。

ーマーケティングの会社から、パルコに入ったんですね。パルコに入ったというか、『アクロス』編集部に入ったのでしょうか?

はい。『アクロス』編集部にちょうど欠員募集があって入社しました。マーケティングの仕事をしていくうちに、クライアントの意向は100%。だんだん悶々としてきて、やっぱりメディアに行こう!と思って転職しました。当時、たしか布谷(ぬのたに)っていう内装設計の会社が出していた、街や店の写真を撮って分析するタブロイド紙があって。あと、ツタガワ・アンド・アソシエーツが出していた『ニューヨーク・ストア・ウォッチング』や『ニューヨーク・スタイル』とか、こういうのを自分でもやってみたいなと思っていました。一人旅が好きだったので、よく海外に行っては建物や店、人の写真を撮ったりしてましたね。それを現地でキャビネに焼いて、切手を貼って知り合いに送ったり(笑)。流行ったんですよね。

ー旅先で葉書を誰かに送るっていうのは流行りましたね。それで自分が帰国したのと同じくらいに届いたり。今では考えられない余韻のある行為ですよね。写真も好きなんですね。いまにつながる必要な要素が、全部揃っている。

昔、六本木にウェーブ(WAVE)っていうお店があったんですけど、そこの4階か5階にストアデイズ(Store Days)という本屋さんがあったんですね。名前がイカしてる。ストアデイズ!そこには写真集とか図録とかがいっぱいあって。もちろん、高いので買えないんですが。地下にはシネ・ヴィヴァンという映画館があって。1人で映画観て、上で本見て、途中階でCD視聴する…。まあまあ、暗めの学生時代だったかも(笑)。

ー暗いというか、超先端ですね。カルチャーとか、ファッションを感じる場所だったし、確かに写真集は高くて買えなかった!でも懲りずに行くという。

ミーハーなのかもしれない。

「アクロスに入って、客体的に観察者に変わりました。路上が新鮮で、ウヒョー面白い!っていうのが次々に出てきた」


ーアクロス編集部に入られたときには、すでに「定点観測」は始まっていて、実際には92年から担当されてますよね。その当時、編集部員は何人くらいいらしたんですか?

私が入った92年にはたしか12人でした。特集班が2つ、定例班が1つで、3つの班に分かれていて。私は特集班だったので、1ヶ月半周期くらいで集中してガーって仕事して、10日間休む、っていうサイクルでしたね。

ースピードがどんどん増していく様子が分かります。時代を感じますね。実際に担当して分かったことは?

「観察者」に変わりました。自分が好きなものがどうこうっていうのから、客体化した目線に変わっていきましたね。当時はほんとうに路上=ストリートが新鮮で。路上から次々沸き立つ若者たちのファッションに夢中でした。92年とか93年はフレンチカジュアルがブームの少し後くらいで、ピッタピタのチビTやシャツとか着ている男の子に出会い、インタビューしたら、地元のイトーヨーカドーのウィメンズで選んだと言うんです。いまでは珍しくないですけどね。そういう自分が知らなかったことに日々出会うのが楽しかったですね。その頃は、北関東から千代田線とかを使って東京に出てくる若者が急増した時期。何でこんなにいるんだろう?っていう、若者の生態というか、発見がたくさんありました。去年はいなかったのに、とか。当時、私の大好きなフレディ・マーキュリー(Freddie Mercury)がエイズで亡くなり、社会問題化したとき、漂白剤を使って、自分の指で「AIDS」って描いたネイビーのTシャツを着ている女の子に出会ったりもしました。何てクリエイティブなんだろうって感動しましたね。ファッションは自己表現なんだなって、そのコミュニケーションのパワーにもワクワクしましたね。

ー90年代だと、もうグランジファッション(Grunge fashion)とかが流行ったりして、古着を使ったDIYな気分が始まるんですよね。ガーリーカルチャーもその頃から。

はい、DIYです。文化の学生さんとかだと、ジャケットやパンツも作っていたのですごいですね!

ー確かに(笑)。「定点観測」に、学生アルバイトが加わり始めたのはいつ頃ですか?

1998年に『アクロス』が休刊するまでは、社員中心でアルバイトは1人でした。ちょうどスナップが流行り初めて、他に新興勢力がいっぱい出てきたとはいえ、「休刊してここで止めてはもったいないじゃないか!」という思いと「続けたい!」という純粋な気持ちがありましたね。結果、編集部は解散したんですが、WEB媒体として生き残ったんです。深夜のファミレスで企画書練って、当時は平社員だから、部長、局長とプレゼンしていって。最終的には社長に編集部員2人でプレゼンしました。「わかりました」。よく言ってくださったなって思います。今思うと感謝です。そこからたった2人でもう1回作り直しました。でも定点観測は2人じゃ出来ないので、アルバイトとか当時多かったフリーターにお願いして。というか、巻き込んでいった(笑)。そうしているうちに、だんだん大学院生やエリートの学生が増えていった。今回の本の中でも触れていますが、2000年を越えたくらいから社会学部とか文化社会学みたいな領域が豊かになってきて、ファッションがもっと身近な、教育的な研究対象になってきている。研究テーマにしたいっていう若者が現われたんですね。アルバイトから学者になって活躍している若い方達が増えてきています。2000年以降、ファッションが産業的にも、生活したり生きていく上でも、身近なもの、密着しているもの、考えざるを得ないものに変わってきたという証であり、良い変化だなって思います。

ーどの分野でも、ファッションが無視出来ない時代になったということですね。常に若い学生達が参加してきたことが、『アクロス』が続いてきた理由なのではないかと思います。

学生たちには、本当に助けられてます。当時は気づいてなくて、ふつうに手がないから、みんな手伝って〜みたいな感じでしたから(笑)

「一つの流行からスピンアウトして、また違うスタイルが出てくる。そのズレがファッションだと思うんです」


ー路上でハンティングするために、事前にテーマを決めていますよね。その内容に、すごい特徴的な変化があったことはありますか?

プレサーベイ(pre-survey:事前調査) っていうのを行なっています。これはとても大切な事で、今回出版する本でも「定点観測」という独自のリサーチの方法を具体的に書いています。ファッションスナップというと、街に出て、その日に出会ったおしゃれな人を撮影するという方法が一般的だと思いますが、「定点観測」はそうではなく、編集部員が普段から街を観察した中で感じたことを持ち寄って、前日に、テーマを決めるためのプレサーベイを実施します。ディスカッションをして、みんなで協議して、合意の上でキーワードを決める。

ーそれはすごい面白い。独りよがりじゃない。

そうですね。と言っても、編集部よがりですが…。今回書籍にまとめる中で、裏原系とかHIP HOP系とか、コンサバ系が弱いなとか、そういう偏りはありますね。どんなに色んな人が関わっても、やっぱりファッションの一部しか綴れないんだなって思いました。

ー今、国立新美術館で開催中の「ファッション イン ジャパン展」にも「定点観測」から写真を提供していますが、この展覧会を見て同じようなことを思いました。それぞれのコーナーが扉で、そこを開けると奥には、深く長い道があると。つまり網羅なんてできないんですよね。でも網羅する前の一筋の道が必要で。「定点観測」はやっぱり、パルコなのだ!というので、いいと思いますが。

パルコ的な視点、なんでしょうか、「定点観測」は。どこか特定の場所ではなく、やっぱり路上なんです。路上に沸きたった新しい価値観みたいなものを、ファッションを通して見ている。渋谷、原宿、新宿の3地点のフィールドを比較して。でも渋谷界隈でずっとやってるからこそ、他の場所との違いに気づく。仙台のパルコをつくる時には現地に何回か行って「人がいる溜まり場はどこ?」ってリサーチしたり、方法論として応用しています。おかげさまで他の企業からマーケティングの仕事を受けたり、共同研究も行なっています。

ー先ほどのお話しで、すでにどの分野においても、ファッションを知ることが大切な要素だと思うのですが、高野さん自身は、ファッションって何だと思いますか?

私は専門のファッションの勉強はしてきてないし、デザイナーさんのように作れないし、ファッション業界人ではないんですよね。

ーそうですか?私の中では業界人の位置付けですが。業界の渦の中からたまに外れて、冷静に見ている観察者?

少なくともファッションエディターではありません。ファッションは業際の象徴。色んなものが内包されていて、多くの人が受け入れた時がひとつの結論。そこからまたスピンアウトして、また違うスタイルが出る。そのズレがファッションのモードという部分だと思うんです。私たちはそこの変化の部分を探究し、記録していきたいですね。

ーマーケティングをやっていた人の感覚だなとも思います。

出来上がったものに対して、可愛いとか、着たいとか、そういうのもあるんですけど。結局は作ってる人、着こなす人に興味があるのかもしれないですね。私の研究フィールドってひと言では言えない。ファッションなのかな?

ーファッションだと思います。ファッションの古くからある、けれど新しい分野だと。これからこの考察を、より広い世界に位置づける作業が出てきますよね、きっと。私が上司だったら、高野さんをパリや他の都市のコレクションに行かせてみたいです。

ランウェイじゃなくて街を見ちゃいますよ(笑)。アンリアレイジが初めてパリでショーをした時に、ショーはもちろん見たんですけど、結局、街をうろうろしちゃって。でも見たいですね。ファッションを変化させているのは、オシャレな人だけじゃないんです。理屈ではなく、全く予期してななかったところから、新しいものがワッっと出てくる。そのどんでん返しも、ファッションが持つ醍醐味だと思うんです。

「パルコが掲げた、街がメディアだっていう感覚を言い続けたい」

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ー「定点観測」の40年分を書籍にまとめ終えて、1番伝えたいことは何ですか?利用の仕方は人によって色々あると思うんですけれど。

書籍の前半は、以前に出版された『東京の若者』『STREET FASHION 1945-1995』からの再収録です。さらに1995年から2020年までの200回分の「定点観測」のデータを、1年ごとに、4月と10月だけピックアップして掲載しました。インタビューは各年から約7人ずつ選んで、25年間に沸いた「40のブーム」をピックアップして解説するコラムページを間に綴じこんだ構成にしました。整理していく段階で、90年代がまたリバイバルして、ビューティビースト(beauty:beast)とか20471120(トゥ―オーフォーセブンワンワントゥーオー)が復活していることが見えてきたり。2000年以降は流行が本当に多様化しているので、すべては網羅できてないんですが。路上に起こったブームを一つ一つ解説してるので、データベースみたいに使ってもらえたら嬉しいですね。最後に年表が付きます。年表は癖なのか、パルコ創業の1969年から作っております(笑)。69年から始まってパルコの視点である「街がメディアだ」っていう言葉と感覚を伝えていきたいですね。

ー編集作業は、ほぼ1人でやったんですよね?

構成と文章は私が担当しています。写真のセレクトやインタビューの部分は編集部員で手分けして、原典をあたりました。

ー英語版も出せたらいいですね。

出したいです。でもまだ何も進んでないですが。

ー「Google Arts & Culture」のプロジェクト、「We Wear Culture」に参加していますよね?あそこにアクロスが入ってきたことが嬉しいです。海外のかたにとっても、日本独特の複雑なファッションを読み解く文献として、価値があるように感じますし。そこから未来に繋がっていって欲しいです。

プラットフォームを持っているところと一緒に組むっていうのは、いいなって思います。色々な人に見てもらうことで、違う見方を知ることができて勉強になります。「定点観測」の写真は国内外から、展覧会への貸出依頼や、論文や書籍の資料としての問合せも多いんですよ。内容によっては記事の提供もしています。

ーこの本がきっかけで、思いがけない広がりがあるといいですね。

そうなって欲しいなと思います。でも本を見た人から「いや、自分が見ていた、あの時代のあの場所の路上は違っていたよ!」って言われたら、ぜひその話を伺いたいですね!

『ACROSS』の歴史
1974年 前進となる『月間パルコレポート』創刊。パルコ社内と全国のパルコに出店しているテナント各社などに向けた「ファッションビジネス情報誌」としてスタート。
1977年10月 『月間アクロス』創刊。
1980年8月 「定点観測」スタート。渋谷・原宿・新宿の3地点で、若者のストリートファッションを観察・分析。
1984年12月 写真に加え、デプスインタビュー(depth interview、深層面接法)もスタート。
1993年5月 『流行観測アクロス』に名称変更。
1998年6月 7月号を最後に同誌は休刊するも、「定点観測」は継続。
1999年 『アクロス』編集室主催による「ストリート・ファッション・セミナー」を開催。シンクタンクとしての活動を開始。
2000年10月 ウェブマガジン『WEBアクロス』創刊。
2003年3月 『トーキョーリアルライフ~42人の消費生活』(実業之日本社)上梓。
2015年4月 『ACROSS』に改名。
2017年6月 Google Culture Instituteが主催する“Arts & Culture”のWe Wear cultureのプロジェクトに参加。
2021年8月 「定点観測」40年の集大成として、書籍『東京のファッション・カルチャーの現代史~定点観測の記録 1980 -2021』を上梓。

高野公三子 KUMIKO TAKANO
1977年に設立したパルコのファッションとカルチャーのシンクタンクが運営するメディア『アクロス』編集部に、1992年から参加。2000年10月にウェブマガジン『WEBアクロス』が創刊され、編集長に就任。41年目に入った「定点観測」の集大成となる書籍『東京のファション・カルチャーの現代史~定点観測の記録 1980-2021』の編集を手掛け、2021年8月12日発売。共著に『ファッションは語りはじめた 現代日本のファッション批評』(フィルムアート社)など。

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