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「かぐや姫」泥沼愛憎劇説を推していく

2年ほど前、2013年に公開された高畑勲監督の『かぐや姫のものがたり』を観た。竹取物語の本筋はそのままに、視点を変えるとこんなにも物語が違って見えるのかと新鮮だった。劇中で何度も歌われる「わらべうた」は作品の世界観を映し出す、というよりそのまま体現していて、しばらくは口ずさむことになった。

ところで、作品に描かれているかぐや姫の「罪と罰」とは結局何だったのだろう。劇中では直接語られることはなかった。かつて古文の授業で聞いた記憶の中の「竹取物語」が薄れてきていたこともあり、原文の「竹取物語」を読んだ。

今日はそのニ作品から考えたことを書きたい。
とはいえ、自分は専門家でも何でもないですし、どちらも2年前のメモをもとに書くので曖昧な部分も多いです。悪しからず。

【かぐや姫が不死の薬と手紙を帝に残すのはどういう意味?】

高校生の時、古文の先生がこの行動を指して「かぐや姫は悪女だ」と言っていた。これについては『かぐや姫の物語』では中心となるエピソードではないが、原文を読むととても印象的な場面だ。

先生によれば、男女が別れる時にきっぱり嫌いだと告げないのは残酷だと。
原文では、かぐや姫が地上を去る時、帝に歌を贈る。

今はとて天の羽衣着る折ぞ 君をあわれと思い出ける

『竹取物語』作者不詳

今、お別れして天の羽衣を着る時になってあなたを慕わしく思い出します、という意味である。相手を拒否したにも関わらず、相手が自分のことを好きだとわかっていて、離れ離れになる時に「さよなら。好きでした。」と言うのである。本当に帝のことを想うなら、帝がかぐや姫をすっかり忘れることができるように、思わせぶりなことは言わない方が良い。こんなの生殺しである。
しかもかぐや姫は不死の薬を帝に渡す。
「私の意志で宮仕えしなかったわけじゃないの。帰らなきゃいけないから仕方なかったの。私のこと忘れないで、その不死の薬を飲んで永遠に私のこと好きでいて」
ということだろうか…?
…だとすれば確かに残酷だ。結ばれないとわかっていて、一生思い続けてほしいなんて。まさに悪女である。

そして帝はその手紙と不死の薬を、月にも届くよう日本一高い山の上で燃やす。
「あなたがいなければ、どんなに長く生きるとしても意味がない」
という意味なのだろうか。でもそれなら、不死の薬だけを燃やしても良い気がする。手紙まで燃やしたのは、思い出すのも辛いからなのか、かぐや姫へのあてつけなのか。

こう考えると、泥沼愛憎劇なのかも。(妄想です)

【かぐや姫の罪と罰って、一体なんだったの?】

『かぐや姫の物語』『竹取物語』を通して鑑賞してみると、「かぐや姫」の罪と罰には大きく分けて3つの説があると思う。
①「地上へ行きたいと願ったこと」が罪、「地上へ下ろされること」が罰
②「地上へ行きたいと願ったこと」が罪、「月へ戻されること」が罰
③「地上へ行きたいと願い、人と交わり子を残すこと」が罪、「地上に下されること」が罰

作品鑑賞前の記憶だけに頼った素直な感想なら、①が正しそうに思う。
天人にとって地上という汚れた場所へ行きたいと願うことは罪であり、その罰として「穢れた」地上へ下されるのである。
願った地へ行かせることが罰になるというのは私の直感には反するのだが、地上や人間の汚なさを知っている天人にとっては地上へ下されることは罰であっただろうし、地上へ下ったかぐや姫が地上の汚なさを知り、反省して地上への憧れを捨てることが狙いだったのかもしれない。『かぐや姫の物語』でも翁に入内させられそうになったり、かぐや姫の意思に反して求婚されたりしてかぐや姫が逃げ出したいと思うことで月へ帰ることになってしまった。
『竹取物語』でも、「忌まわしいことを言う。そんなに望むのならば地上へ行くが良い。そこがどんなに汚いかを身をもって知るが良い。」という天人のことばが出てくる。

しかし、『かぐや姫の物語』でも『竹取物語』でも、かぐや姫は月へ帰りたくないと涙する。
やはり①のように、天人はかぐや姫が地上で反省することを狙っていたが、地上の汚さ以上に地上で生きることの素晴らしさを知ってしまったかぐや姫は、地上から戻されることになり涙した。という解釈もできると思う。

ただ、『かぐや姫の物語』ではかぐや姫の思いが劇的に描かれていて、かぐや姫にとっては②の地上から戻されること自体が罰のような気もしてくる。
「そんなに言うのならが地上へ行くが良い。汚い地で生きて行けるというのならば証明してみせよ。ただし、もう嫌だ、逃げ出したいと思えば証明できなかったものとみなし、罰として月へ戻す。」ということだった、という解釈もできるかもしれない。かぐや姫が地上で翁の上昇志向や周囲からの身勝手な愛を受けたことで生じる「負の感情」が月に伝わって月へ帰らなければならなくなることとも合致する。でも、逃げ出したいと思ったから月に戻してあげるのではなんだか優しすぎる気がする。月へ戻すことが「罰」となるためには、天人が「かぐや姫」が実は地上を愛しているということを理解している必要がある。天人は「地上は汚れている」という考えなのだから、これは何だか変だ。

③については、たまたまネットで見つけた『かぐや姫の物語』の解釈で、それも面白いと思った。かぐや姫は天人と地上人の間にできた子であり、かぐや姫の母もかぐや姫と同じように地上に憧れたことで罰を受け、その中で地上の人と子を成し、それがかぐや姫だった。地上を思い涙を流す母を見て育ったかぐや姫は母と同じ罪を犯し同じ罰を受ける。そしてかぐや姫は捨丸と子を成し、その子はまたかぐや姫と同じように罪を犯し、「かぐや姫の罪と罰」は永遠にループする。作中最後に描かれる赤ん坊は捨丸との子なのだと言う。月では地上人の地自体が汚れであり、天人と地上人のハーフを生み出し続けることが罪なのである。なるほど面白い。ただ、これだと罪と罰が対応しないような気がする。子を成したことで地上へ下されるなら順番が逆である。逆に子を成したからその罰として月へ戻されるのか?いや、月へ地上の血を持ち込みたくないのなら、月へ戻さず「かぐや姫」を地上へ永久に追放してしまえば良い。そもそも「かぐや姫」を罰として地上へ下ろすから子を成してしまうわけで、ループしているのなら天人はそのことを知っているはずなのだから、地上へ下ろすなどという罰をやめてしまえば良い。面白いけど、納得しきれてない説。

以上を考えると、私はやっぱり①の解釈がしっくりくる。
天人はかぐや姫に地上の汚さを教え、ニ度と地上へ行きたいなどという考えを持たせないことを狙ったが、かぐや姫は地上を、草木を、動物を、汚れを抱えながら命の輝きを放つ人間を、愛してしまった。
と、綺麗にまとめてしまうとかぐや姫悪女説が崩れてしまうので、ちょっと気に食わなかったりもするのだけど。

【『かぐや姫の物語』劇中歌 「わらべ歌」】

『かぐや姫の物語』では劇中歌として「わらべ歌」が印象的である。「わらべ歌」は地上で子供たちが歌うバージョンと、かぐや姫以前に地上に憧れを抱いた天女が歌う天女の歌バージョンがある。

〈わらべ歌〉
まわれ まわれ まわれよ 水車回れ
まわってお日さん呼んでこい
まわってお日さん呼んでこい
鳥 虫 けもの 草 木 花
咲いて実って散ったとて
生まれて育って死んだとて
風が吹き 雨が降り 水車回り
せんぐりいのちがよみがえる
せんぐりいのちがよみがえる

〈天女の歌〉
まわれ めぐれ めぐれよ 遥かなときよ
めぐって 心を 呼びかえせ
めぐって 心を 呼びかえせ
鳥 虫 けもの 草 木 花
人の情けを はぐくみて
まつとしきかば 今かへりこむ

『かぐや姫の物語』

天人は、悲しんだり苦しんだりすることもないが、楽しさや喜びもない世界に住んでいる。いわば、悟りの境地である。
咲いて実っても、散ってしまうこと
生まれて育っても、死んでしまうこと
それは無意味なのではないか、「散る」「死ぬ」すなわち悲しみや苦しみは、「咲いて実るから」「生まれて育つから」生まれてしまう。なら。「楽しさ」や「喜び」は、咲くことも実ることも生まれることも育つことも、ない方が良い。
天人は悲しみや苦しみの世界を嫌ったのだ。

でも地上で生きると言うことは、散っても、死んでも、また喜びが巡ってくるのである。それが命である。自分は「せんぐりいのちがよみがえる」をそう解釈した。

天女は天の羽衣で地上での感情は失っているが、どこかでその美しさを覚えているのかもしれない。だから天女の歌を口ずさむ。そこには不思議な力があり、それが次のかぐや姫を生んでしまうのかもしれない。


悩むことも苦しむことも失敗して泣くこともあるけど、私たちはかぐや姫が愛した地上の人。
命は巡っていきます。明日も頑張ろう。


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