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3分講談「秘密探偵・岩井三郎」 

明治二十九年、東京日本橋に、日本初の私立探偵事務所が誕生いたしました。創始者は、岩井三郎。元は警視庁の刑事でしたが、三十歳で警視庁を辞して野に下り、探偵業を始めました。当初は、岩井が一人ですべてをまかなう個人事業所でしたが、七年後には大阪堂島にも支店を構えるほどになり、日本初の女性探偵を輩出するなど目覚ましい躍進を続けました。扱う事件も、殺人事件から誘拐事件、保険金詐欺や身元調査まで実にさまざま。本日は、そんな岩井氏の携わった事件の中から、短いお話をまずは一席申し上げたいと思いますが。(①)

大正二年六月のこと。とある生命保険会社より依頼を受けた岩井は、保険金詐取疑惑のある事例を調査すべく、広島へ飛びました。飛びましたと言っても、今のように新幹線や飛行機はございません。東京新橋から列車に乗りまして、神戸で乗り継いでさらに広島へ…合計所要時間は約二十二時間、丸一日がかりの長旅でありました。

広島に着いた岩井は、さっそく聞き込みを開始いたしました。今回の事例で死亡した被保険者は、田村喬二十三歳。保険金の受取人は、その父親である吉太郎。吉太郎は、表向きは骨董商を営んでおりましたが、実は地元で有名なやくざ者で前科二犯、すこぶる評判の悪い男でありました。一方、息子の喬というのは、もう四五年前から、青白い顔で寝たり起きたり、時折激しく咳き込んで血を吐いたりするほどの病態だったことが分かりました。吉太郎が喬に保険を掛けたのは、喬が死亡するわずか一年前のことであります。通常、明らかな病気を患っている者には保険を掛けることができないはずだ。さらに調べを進めますと、保険が掛けられる半年ほど前には、児島医院という個人病院に入院していたらしいということが分かりました。児島医院の院長は「児島進」。岩井はその名前を聞いて、「待てよ」と首をかしげました。「どこかで聞いたような」。そしてはったと膝を打ったのもそのはず、田村喬の保険契約時の健康診断書に「既往歴なし」として、署名・捺印してあったのが、他ならぬこの児島進だったのです。(①)

「これは必ずや裏がある」。そう確信した岩井は、児島医師のお抱え車夫をしていた虎吉という男から情報を引き出そうと考えました。ところが虎吉は、児島への忠義心からか、簡単には口を割らない。知らぬ存ぜぬの一点張り。そこで、車夫仲間の辰造という男を呼びまして、

「いいか、虎吉を飲みに誘ってベロベロに酔わせるんだ。そして、田村喬という男が児島医院に入院していた事実を引き出せ。分かったな」

と、五円札を握らせた。五円札といえば今の十万円ほどですから、

「へっへっ、旦那、こんなに戴けるなら、お安いご用でございますよ…」

すっかり金に目が眩んだ辰造は、約束通り虎吉を飲みに誘い出しました。いつもなら場末の安居酒屋に入るところですが、今日は元手がございますから、ちょっと小洒落た小料理屋の二階へ上がりました。上等な酒に上等な肴。虎吉の気が緩んだところで、辰造はこう切り出しました。「そういえばよう、骨董屋の田村のせがれ、若いのに気の毒だったな。そういえばあのせがれ、お前の所の病院に入院していたんじゃなかったか?」虎吉は、すっかり酔いが回っておりますから、
「ああ?田村のせがれ…ああ、あいつァ肺結核で入院していたが、到底治る見込みなんかなかったよ」
と、本当のことをべらべらっとやった。この証言から、児島は、自分が診察し入院までさせた患者でありながら、保険の診断書には「既往歴なし」と虚偽の申告をしていたことが明らかになりました。その実を申しますならば、田村吉太郎とこの児島医師とは遠縁に当たり、二人が共謀して、保険金詐欺を企てたのであります。すんでのところで詐欺を見破った岩井は、朗らかな心持ちで厳島神社を参拝し、東京へと戻りました。(①)

ちなみに、この岩井三郎の元へ、若き日の江戸川乱歩が、探偵の弟子入り志願に行ったことがあったそうなんですね。これミステリーファンの間では、そこそこ有名な話のようなのですが、乱歩自身は晩年に、この時のことを次のように振り返っています。

「岩井氏は白髪の元気な老人で、ピンと袖の張った生平の着流しで、洋風の応接室へ出てこられた」「老人にはさだめし私が世間知らずの生意気な青二才に見えたことであろう。よく考えておくからということで追い返されたが、結局採用の通知は来なかった」(①)

もしこのとき、乱歩が探偵として採用されていたならば、数々の名作が世に出されることはなかったでしょう。したがってこのあと申し上げます「乱歩と伯龍」のお話が生まれることもなかったわけで、まこと運命の掛け金というものは、数奇なものでございます。「秘密探偵・岩井三郎」の一席。

 


参考文献
・「探偵小説四十年(上)」(『江戸川乱歩全集』第二十巻、講談社、一九七九年)
・『探偵ロマンス』「二萬圓の生命」(大正四年、銀座書房)(コレクション・モダン都市文化40『探偵と小説』、ゆまに書房、二〇〇六年 所収)・『江戸川乱歩事典』(勉誠出版社、二〇二一年)

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