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3分講談「六甲山の由来」(テーマ「かぶと」)

 兵庫県の六甲山は、古くは「武庫の山」と申しました。「武庫の山」の「むこ」に、いつしか「六つの甲(かぶと)」という字が宛たり、やがてそれを音読みして、「ろっこうさん」と呼ぶようになったそうでございます。
 さて、ではなぜ「六つの甲」と書くようになったのか、その由来となりましたお話は―。

 時は今から2000年ほど前、仲哀天皇の御代のこと。早くに亡くなった大王(おおきみ)に代わり、后である神功皇后が政を取り仕切っておりました。この神功皇后という人は、大変に豪傑で男勝り。ある時、自ら兵を率いて朝鮮半島へ向かい、国々を配下におさめて、意気揚々と帰路につきました。
ところが、都では、皇后の不在に乗じ、密かに謀反を企てる者がおりました。亡き大王と他の后との間に生まれた香坂と忍熊という兄弟。二人は大軍を率い、皇后の船が瀬戸内海を通って難波の都へ凱旋する途中、ちょうど現在の武庫川あたりにさしかかったところで待ち構え、奇襲をかけました。
 しかし、さすがの策士は神功皇后、国内の動きはすべて掌握しておりました。皇后の使いが香坂らの乗る船へとやってきて言うことには、「実は皇后は、朝鮮征圧の最中にお亡くなりになったのだ。だからお互い、無駄な戦いはよそうではないか」。そうして持っていた武器をみな海の中へと投げ捨ててしまいましたから、香坂と忍熊はすっかり調子が狂った。相手がいなくては戦はできぬと、しぶしぶ武器をしまって和平の姿勢を示した、そのとたん、皇后方の兵士たちが一斉に、隠し持っていた刀を取り出して攻め込んできたからたまらない、慌てて船を陸に着け、丸腰のまま山へ山へと逃げる、その後を皇后方の軍勢が、土煙を上げて追いかけてゆく。     
 とうとう武庫の山の山頂まで追い詰められた香坂・忍熊兄弟とその腹心ら六人、万事休すと立ち尽くしたその首を、皇后は自ら刀を振りかざし、「おのれ逆臣ら、覚悟せよ」と言うやいなや情け容赦なく、ずばっ、ずばっ、ずばっ、と切り落としてしまいました。 
 その六人の兜首を、山の頂に埋めたことから、「六つの甲の山」―「六甲山」と呼ぶようになったという、「六甲山の由来」のお話でございます。

(※『摂津名所図会』より)

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