3分講談「前田利長と高山右近 十文字の炭手前」(テーマ:旅行)
★3月に訪れた、富山県高岡市にまつわるお話です。
富山県高岡市は、富山市よりも西に位置する、商業都市でございます。古くは、越中の国の国府(今でいう県庁)があり、奈良時代には、『万葉集』の編者・大伴家持が国司として赴任していたことで有名です。家持はここ越中で多くの歌を詠み残しましたが、その場所を巡りますと、今でも、胸に染みるような景色に出会うことができます。特に、雨晴(あまはらし)海岸と呼ばれる海岸沿いは絶景で、穏やかな富山湾越しに、雪を頂く立山連峰をはっきりと見渡すことができます。
さて、家持と並んで、この高岡の立役者と言われるのが、街の開祖として知られる前田利長でございます。利長は、加賀藩主・前田利家の嫡男で、加賀・能登・越中三国を掌中に収めて、119万石の大大名として名をはせました。ですから、「加賀百万石」の名実が伴うのは、実は利長の代になってからのことなんですね。その利長が、高岡に居城を築いたのが、慶長十四年(一六〇九)のことでありました。残念ながら城自体は現在残っておりませんが、この高岡城の築造には、キリシタン大名として有名な高山右近が関わったと言われております。現在でも城跡の公園入り口には、右近の銅像が安置されております。髙山右近は、元々明石5万石の大名でしたが、熱心なキリシタンであり、秀吉の伴天連追放令の際にも頑なに信仰を捨てなかったために、大名の身分を解かれて流浪の身になりました。そんな右近を抱えたのが、加賀前田家でございました。ことに、二代目・利長は、茶道を通じて右近への信頼と親交を深めたようで、こんな逸話が残されております。(①)
ある茶席でのこと。利長が茶席で使う炭を熾す「炭手前」を行ったところ、それを見ていた右近がこのように言いました。
「なるほど、このお手前は、源頼政公の和歌の心を体現されたのですな。
さすが利長殿でございます」
周りの人々は、何のことだか分かりません。そこで、茶会がお開きになったあと、ある家臣が利長にたずねました。
「先ほどの髙山殿のお言葉は、どういう意味でござりますか」
すると利長は にっこりと笑って、
「お前たちには分からないであろう。実はな、私は先ほど炭の置き方を失敗
したのだよ。それに気付いた右近が、さりげなく取り繕ってくれたのだ」右近が言った「源頼政公の和歌」というのは、こんな歌のことだったそうですね。「曙の 峰にたなびく 横雲の 立つは炭焼く 煙なりけり」。「明け方の山の峰にたなびく雲のように見えるは、実は炭を焼く煙だったのだな」という意味です。ここに、右近の当意即妙な気配りがあります。利長が行った炭の置き方というのは、「十文字」と呼ばれる失敗例で、なぜ失敗かというと、その置き方だと、煙が多く出てしまうそうなんですね。右近はそれをみて、「これは、あの頼政公の和歌を炭で表現したのですよね?(失敗ではありませんね?)」と、うまくフォローした。そのおかげで、満座の中、利長の面目が潰れずに済んだというわけです。(①)
この一件の後、利長はますます右近への信頼を厚くしたと伝わります。「前田利長と高山右近 十文字の炭手前」の一席。
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