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曽我の紋づくしと御所五郎丸

このところ、曽我物の芸能をいくつか観る機会がありました。そんな中で、講談『曽我物語』の「紋づくし」の場面(御所の五郎丸が兄弟に祐経の仮屋の場所を教えるくだり)は、もしかして講談オリジナルのものなのか?という疑問が湧きました。そこで、つらつら調べて分かったことを、ひとまず記し留めています。認識間違いや不足な点もあるかと思いますが、私自身はこういう「物語の変容」をとても面白いと思うタイプなので、同じような興味を持っておられる方への話題提供になれば幸いです。また、資料や解釈について、ご教示いただけると嬉しく思っています。


『曽我物語』と曽我物/実録物

『曽我物語』は、鎌倉時代に富士の裾野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした作品です。成立年は未詳で、真名本と仮名本でも内容がかなり異なっていますが、室町時代中期ごろまでには原態が成立していたと考えられています(『国史大事典』)。

その後、謡曲・幸若舞の題材となり、江戸時代に入ると浄瑠璃や歌舞伎の題材としても広く取り入れられていきました。原作の枠組を利用しつつ、オリジナル作品に仕上げた、いわゆる「曽我物」が数多く作られました。

また、曾我兄弟の仇討ちを描いた実録本も数多く作られました。講談『曽我物語』の直接のルーツは、恐らくこういった実録本であろうと言われています(浜田啓介氏「近世における曾我物語の軍談について」『近世小説・営為と様式に関する私見』1993年、京都大学出版会)。

「紋づくし」の趣向のルーツ ―幸若舞『夜討曽我』

講談で有名な「紋づくし」の場面は、『曽我物語』そのものには登場しません。謡曲の『夜討曽我』にもみえず、初出は幸若舞の『夜討曽我』です。ただし、幸若舞では、討ち入り当日よりも以前、十郎が1人で屋形を見て廻る場面で「紋づくし」の趣向が登場します(そのあと、十郎が祐経の仮屋に招き入れられて対面する場面へと続く)。

(※十郎が)かく見て通りければ、余り虚空に存じ、東へ回って、家々の幕の紋をぞ見たりける。
 まず一番に、釘抜、松皮、黄紫紅、この黄紫紅は、三浦の平六兵衛義村の紋なり。石畳は、信濃の国の住人に、根井の太夫大弥太、扇は浅利の与一。舞うたる鶴は、蘆原左衛門。…(後略)

幸若舞『夜討曽我』

講談(※現行のもの)では、討ち入り当日に木戸を通過する際に教えられるという設定ですので、「紋づくし」の趣向の登場する場面が幸若舞とは異なっています(現行の講談では「十郎紋調べ」が屋形を見て廻る場面に当たるのでしょうか。未聴なのでよく分かりません)。明治期の速記本をいくつか見た限りでは、討ち入り以前の偵察時に「紋づくし」が登場するパターンと、討ち入り当日の木戸通過時に「紋づくし」が登場するパターンの二通りがあるようでした。

誰が祐経の仮屋を教えるか―御所五郎丸の役割

そして、一番興味深いのは、「紋づくし」が誰の視点で見た景色として描写されるのか、という点です。幸若舞『夜討曽我』では、十郎が自ら偵察に行き目にした光景という設定です。一方、現行の講談では、御所の五郎丸が仮屋の場所を兄弟に教えるという設定で、五郎丸の視点から描写されます。速記本をいくつか見たところでは、他に榛沢六郎や本田次郎が教えるという設定のものもありました。(※幸若舞では本田次郎が祐経の寝所を教える)

ここが、面白いと思うところです。榛沢や本田であれば、畠山の家臣ですので、兄弟の味方ですよね。ですので、その二人が兄弟に祐経の仮屋の場所を教える設定であれば、特に違和感はありません。一方、御所の五郎丸は頼朝の近習ですので、祐経側です。しかもラストでは、女性に変装して五郎に近付き、隙をついて五郎を生け捕る役回りです。そんな五郎丸が、なぜ兄弟に祐経の仮屋の位置を教える「紋づくし」を言い立てる役割を担うようになるのか。講談に取り込まれる段階で、何か意図があって改変されたのか。あるいは、もっと以前の実録等の段階で改変されていたのか、分からないことばかりですが、面白いです。

なお、『曽我誉仇討』(伊東潮花 口演、明33年)には、合理的な説明が加えられています。この本では、「紋づくし」は、陣屋内を偵察する兄弟が目にした景色という設定ですが、討ち入り当日、木戸通過時にピンチに陥った兄弟を救った人物として御所の五郎丸が登場します。しかし、本懐遂げた後の五郎を捕縛するのもまた、五郎丸です。この、ある意味での矛盾を解消すべくなのか、こんなふうに説明されています。

「曽我の五郎時致は御所の五郎丸が生捕ったり」と大音にてよばはれて時致がハッと思ったは、五郎丸といへば先刻危ふきところを助けられた恩人でございます。その恩人へ向ける刃はないから、さすがの時致が力もなへてしまって少しも動きません。

『曽我誉仇討 (復讐文庫 第9編)』(伊東潮花 口演[他] 朗月堂, 明33.4)

「仇討ち本懐を遂げさせてくれた恩人であったので、抵抗すること無く捕縛された」という筋道で説明しています。この論理は、『梶川与惣兵衛』(屏風回し/大力の粗忽)で但馬守が与惣兵衛に説くものでもあり、講談浪曲の中では、五郎丸は“花も実もある情けある武士”として描かれていることが分かります。

しかし。御所の五郎丸は、『曽我物語』から一貫して、最後には五郎を捕える役回りとして登場するキャラクターです。当初は単なる脇役(ですらない、ちょい役)なのです。それがいつなぜ、「兄弟のピンチを救い、祐経の仮屋を教える重要な役割を担うキャラクター」へと変容・成長したのか。

それを知るためには、実録類をきちんと比較する必要がありそうです。前掲した浜田論文の中には、『武家評林曾我物語』という講談の種本となったという実録本が紹介されています。原本は京都大学図書館に所蔵されているとのことですが、どうやら影印も翻刻も出ていません。写本ですので翻刻も骨が折れそうです。この本を含めて、どなたか、専門の方が整理・考察して下されば有り難いなと思っています。(最後は丸投げ・笑)

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