語りで聴く「女殺油地獄」―蜃気楼龍玉師の落語版に思う

近松門左衛門の傑作のひとつに、『女殺油地獄』がある。享保六年(1716)に人形浄瑠璃として竹本座で初演された。歌舞伎になったのは、意外にも明治時代になってからのことだという。


劇作の見せ場

現在、浄瑠璃・歌舞伎においてこの演目の代名詞ともなっているのは、「豊島屋油店の段(場)」であろう。油まみれになりながらの惨殺劇は観る者に強い印象を与えるが、決してただ惨たらしいだけではない。義太夫に乗せて繰り広げられる男女の無言の攻防には、ある種のカタルシスさえ感じさせるほどの、演劇的な美しさがある。夜叉の形相で刀を振り上げる与兵衛と、お吉の海老反りで迎える幕切れの構図は、その最たるものといえるだろう。

ご承知の通り、与兵衛はどうしようもない放蕩息子である。馴染みの遊女・小菊が他の客と野崎参りに出かけたことを嫉んで、その客に喧嘩をふっかけて乱闘騒ぎを起こす。その末、通りがかった武士(実は与兵衛の伯父の主君)に泥をぶつけてしまい、伯父はその不始末を精算するために浪人する羽目になる。それでも与兵衛は悪びれない。全うに家業に勤しんでほしいと懇願する継父と母を文字通り足蹴にし、遊郭通いを続けるための金をせびる。そのためついに勘当されるのであるが、このことが、後の悲劇の引き金になる。

河内屋与兵衛は悪人なのか

この芝居をどう観るべきなのか。ずっと分からないままだった。以前、一緒に観劇した若い女性たちは、口を揃えて与兵衛の悪人ぶりを糾弾し、「ひどい男!」「最低!」と憤慨していた。女性の立場で、お吉に感情移入して鑑賞したようだっだ。

…いや、その通りなのである。
与兵衛はどうしようもない荒くれで、こんな男に、なまじ老婆心を起こしたばかりに殺されてしまうお吉は、100%被害者である。豊島屋での惨殺劇は、与兵衛の異常性と狂気を印象づけるには充分過ぎるほど充分だ。

しかし、従来指摘されているように、「豊島屋油店の段」の主眼は、与兵衛を単なる殺人鬼として描くことにあるのではない。自らが招いた不始末と親への義理との間(はざま)で進退窮まる男の弱さこそが、この場面の主題と解するのが筋であろう。与兵衛を凶行に走らせたのは、紛れもなく「親への愛と義理」なのである。

与兵衛が店の印鑑を不正利用して借りた金の返済期限が迫る中、そんなことは露も知らない母と継父は、こっそりお吉に与兵衛の生活費を届ける。勘当してなお、息子の行く末が心配なのである。そんな親の優しさを垣間見てしまった与兵衛には、どうにかして期限までに借金を返すより他に道はない。そうしなければ、借金のかたに河内屋が人手に渡ることになるからだ。それでは親に申し訳が立たない。

進退窮まった与兵衛は、ついにお吉を殺して金を奪おうとする。お吉に命乞いされた与兵衛は、「こなたの娘が可愛いほど、俺も俺を可愛がる親父がいとしい。金払ふて男立てねばならぬ。諦めて死んで下され」と言い放つ。身勝手この上ない台詞だが、ここに、与兵衛なりの一応の“論理”と“意志”がある。『伊勢音頭恋寝刃』のような、夢遊の中の殺しではない。

とするならば。
与兵衛目線でこの物語を見直してみたくなった。どうしようもない不良息子の与兵衛が、なぜ幼なじみのお吉を殺さなければならなくなったのか。劇作の中では、どうしても俯瞰的な構図で物語が展開されるが、与兵衛の心情に沿った味わい方をしてみたい―。

落語版・女殺油地獄

そんなときに出会ったのが、蜃気楼龍玉師の落語版「女殺油地獄」である。

落語作家・本田久作氏の脚色で、2017年初演とのこと。動画は2021年再演時のダイジェスト版である。

ダイジェスト版なので全貌は分からないものの、一見して、劇作とは全く異なる印象を受けた。ストーリー展開は最小限の語りで説明され、あとは、登場人物の会話で物語が進む。「豊島屋の段」にあたる場面では、与兵衛の心情が、師の台詞・表情・しぐさひとつひとつから滲み出すように伝わってくる。借金取りから散々馬鹿にされ、明朝までの返済を迫られる情けなさ。一つ鳴るごとに夜明けに近づく、時の鐘の音への怯え。夜明けまでに何とかして金を揃えなければという焦り。そして、その焦りが極まってついにお吉を手に掛けた瞬間の吹っ切れた狂気。七つの鐘を聴いてしまったあとの諦念と自棄。

最後まで与兵衛の心情にフォーカスした描き方は、まさに私が見たいと思っていたものであった。劇作では見どころとなる殺しの場面は、静謐な語りで済まされるのみ。人物同士の会話を中心に進む「落語」という形態だからこそ体現できたものなのだろう。

劇作から語り芸への転換が、ひとつの作品に、原作とはまた異なる魅力を付加した一例といえる。大いに楽しませていただいた。

※つぶやき
個人的には、講談としても是非聴いてみたいのですが、ネットで調べる限り、「女殺油地獄」が講談で口演された情報が見つかりません。ご存じの方いらっしゃいましたら、ご教示ください。(なお、浪曲では、春野百合子さん・春野恵子さんが口演なさっていたのを聴きました)




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