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3分講談「祝祭」(テーマ:花)

どれほど長い時間、眠ったのだろうか。ふと、足元が暖かいことに気付いて、目を覚ました。見ると、陽が燦々と降り注いでいる。空気はひんやりとしているが、もう春が来たらしい。

「そろそろ起きますか…」

小さく伸びをして、姿勢を正す。成長痛のような鈍痛が腕に走る。指先を見ると、爪は知らないうちに美しく伸びている。腕の皮膚も憎々しいほどにつややかだ。自分では見ることができないが、髪も頬も唇も、瑞々しく蘇っているに違いない。毎年、この〝姿〟を求めて、何人・何十人もの人がやって来る。

 ここに来てもう何度目の春なのか、覚えてもいない。私たちは今年もまた、川沿いの土手に、等間隔に並んで立っている。遠い昔の同じ年に、ここに連れて来られた者たち同士、今まで一度たりとも、互いに話をしたこともなければ、関心を持ったこともない。桜の木というものは、紅殻格子の中の遊び女たちと同じように、華やかで残酷な運命の元にあるのだ。

 私の傍らに一つの橋がある。へんてつのない、古い鉄筋の橋。その橋を見下ろしながら、私は密かにある人を待っていた。

去年の春のこと。往来する人波の中、毎日、橋の真ん中で佇む一人の男性がいた。年の頃は三十歳前後だろうか。やや長めの黒髪に眼鏡、くたびれたワイシャツにスラックス姿。浮かない顔で、川の流れやその先の山の緑をぼんやりと眺めている。この季節、私たちを目当てにやって来る人間が大半だというのに、その男性の目は、まるでこちらには向けられていない。次の日もまたその次の日も、同じような出で立ちで、日が陰るまで橋の上で佇み、やがてどこかへ去って行く。

 「こちらを向いて欲しい」という想いが日増しに募る。その想いが通じたのか、指先から離れた幾ひらかの花びらが、折しも一陣のそよ風に乗って、彼の胸元へと舞い落ちた。男性ははっとした様子で花びらを手に取り、やがておもむろに、初めて、こちらに向き直った。目が合った。彼には分からないだろうが、私はとびきりの笑顔を作った。それからも毎日、男性はやってきた。橋の真ん中で佇み、去り際には私のほうを見上げるようになった。

 あれから一年。また彼を待ち続け、三日経ち、一週間が経った。私の身体はもう、花びらを半分ほど失っている。残された時間は少ない。「もう来ないのだろうか―」。すると、ちょうど十日目のこと。日も西に傾き始めた夕刻、川の対岸から彼が現れた。しかし、去年とはだいぶん容貌が変わっている。髪は短くなり、眼鏡も掛けておらず、スーツにネクタイ、磨き込まれた革靴。そして傍らには、品の良さそうな女性の姿。楽しそうに話しながら、ゆっくりと歩いて来る。橋の真ん中まで来たが、去年のように立ち止まらずにそのまま行き過ぎる。川を眺めることも、ましてやこちらを見上げることもなかった。

 そのとき、私の身体の奥からゴーゴーと濁流のような音がして、指や腕が小刻みに震え出した。声を出すことも涙を流すことも出来ないが、人間で言えば、これが嗚咽ということなのかもしれない。震えるたびに、身体に残っているなけなしの花びらが、止めどもなく散っていく。突風に舞い上がり、小さな渦を作りながら、二人の頭上に降り注いだ。二人は立ち止まり、ようやく頭上を見上げてにっこりと微笑んだ。

「きれいだね」「きれいね」

二人が満足げに顔を見合わせ、足元に落ちた花びらを踏みしだいて去って行く後ろ姿を見送りながら、私は再び、長い眠りについた。

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