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3分講談「上田秋成の生い立ち」(テーマ:雨)

※雨→「雨月物語」→上田秋成(多少無理やりです)

 摂州大坂・曾根崎新地。この界隈は大坂随一の郭町、江戸時代には蜆川という川が東西に流れ、川沿いには数十軒もの色茶屋が、所狭しと立ち並んでおりました。
 その中のひとつ、「花屋」の裏座敷で、今しも、「おんぎゃあ」と産声があがりました。享保十九年旧暦六月二十五日、天神祭の夜のことでございます。「おお、よう泣いて威勢のええ子や」。産婆の手に抱き上げられましたのは、丸々とした男の子。その旁らには、赤ん坊の母親が、まだ幼さの残る顔に、ほっと安堵の色を浮かべております。母親のおさきは、大和の国の旧家の娘でありましたが、奉公先で手つきとなり身ごもった。伝をたどって花屋に身を寄せ、この日を迎えたのでありました。
 さて、そのまま花屋の預かりとして育てられました男の子は、四歳になったとき、堂島の紙商嶋屋の主・上田茂助夫婦の養子となり、仙次郎と名付けられました。夫婦にはすでに女の子がおりましたが、仙次郎を店の跡継ぎとすべく、実子と分け隔てなくかわいがりました。
 ところが、仙次郎五歳の春のこと。突然高熱が出てうなされ、痛い痛いと泣き叫ぶ。驚いた両親が医者に見せますと、疱瘡―天然痘でした。当時疱瘡は死に病と言われ医者にも見放されるほどでありましたから、父の茂助は気が気ではない。日頃から信心をしております加島稲荷へ毎夜毎夜出向いては一心に神頼みをいたします。「どうか仙次郎の病を直してくださいまし、命だけは助けてやってくださいまし」。父の祈りが届いたのか、それから五日ばかり経ちますと、すっかり熱も引きました。顔のあばたもほとんど目立たない。「ああ、よかった、加島稲荷さんのおかげや。」茂助がほっと胸をなで下ろしたその時、女房のお清がぎゃっと叫んだ。何事かと駆け寄ってみますと、仙次郎の右手の中指、左手の人差し指が、根元からただれ落ちている。気の毒なことに、疱瘡の毒が指に回ってしまったのです。
 このことが、後の仙次郎の人生に翳りを落とし続けるわけですが、父の茂助は前向きな性分でありましたので、「指がのうなっても、命さえあれば学問も商いもできる」―、そう言いまして、これまでよりいっそう熱心に、仙次郎を教育するようになったのでございます。

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