勤勉と幸福

学問の知識は間主観性の集積であって、真理ではないし、事実でもなく、仮説であり、権力である。

学問の知識には保留事項の方が多いので、学問の知識に基づいていさえすれば、どんな仮説理論(=世界観)を信じていようが自由である。本人がそれで幸福であり、一切の責任を負うのであれば。

ちなみに、学問の知識に基づいていさえすれば、とあえて述べたのは、学問に敬意を払うことは共同体への敬意だからである。

責任とは、その信念に基づく行動によって生じかねないあらゆる結果について現実として受け入れるということである。だから幸福な環境は自ら切り拓かねばならない。予測できる結果に関するあらゆるリスク対策(他者に頼ることも含む)をする責任は自分にある。

何にコミットメントするかは自分で選択しなければならない。他人に選ばせられるということは自分で責任を負えないということである。それでは他責感情が生まれるため、苦しいことである。

すべてを自分で選択できる方が、どんな結果になろうと安楽である。ただし、リスク対策には予測能力と面倒臭がらないことが必要であり、予想能力の不備と怠惰は自分の責任能力のなさとして降りかかる。それゆえ、愚かさと怠慢は自分を苦しめる要因となる。だから幸福であるためには励まねばならない。

自分の欲求が分からないことは自己同一性の危機である。これは深刻な無価値観とやる気のなさを生み、周囲に流されるままになり、その不快感は他責となって噴出してしまう。 

私は自分だけ幸福でも幸福になれないということを知る。結局、自分が幸福になるには周囲も幸福であるように働きかける必要がある。それゆえ、単なる利己心だけで行動するのは、私の幸福にとって望ましい行動ではないのである。

他人の気持ちなど関係ないというのは良心の抑圧である。他者と良好な関係を作ることこそが良心の欲求である。それを抑圧するのではなく、話し合う、信じる、見守る、尊重する、という形で他者との境界線を適切に取るのである。

とはいえ、完璧を期待しても現実的ではない。何事も完璧にはいかないので、自分の愚かさによるある程度の苦しみは進んで背負う必要がある。自分に欠点や至らぬ点があってもいいのである。それが寛容さ、赦しの精神である。

完璧を目指すのではなく、自分にとって幸福な環境は何かを考え、その環境を開拓していけば良いのである。

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